こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

timing

ここから数日は「あなたどうするの」と言われなくなるから気楽でいい。心配の矛先が分散するし、世間的にも休んでいても“おかしくない”時期だから。朝寝坊にも暴飲暴食にも共犯が居て、小言は少しの間閉じていてくれる。もっとも、期間が明ければ言われて当然のことなので反発するつもりもない。

いつまでも眠る私、生きているか心配されるくらい長風呂に入っている私を横目に、模索してくれているのを知っている。でも何も見当つかないでしょう。私が言うのもなんだけれど。“どうにかする”ことをせずに、“どうにかなってきた”結果だと思うの。「端から寄っ掛かる前提置いてるよりマシでしょ」と言いかけるけど、結果的に生かしておいてもらっていることには変わりない。潔さなら、「端からよろしく」言っていた方がもしかしたら“マシ”だったかもしれない。「あなたは自由な人、だからもうあれこれ指示しない」と言わせてしまって、けれども“指示待ち”のような態度を見せてしまってもいる。「こんなにも動かないことに困るなら、動き回って遠くへ突っ走ってく、それを止めることに苦労するほうが、まだよかったかも」なんて、ないものねだりももう十分抱かせているのだ。

「今のあなたの休息だって、もう十分でしょう」と言われた。それはちょっと「決めかねます。」自分のことだけれど。満足のタイミングがわからない。そもそも満足を求めるものでもないのかもしれない。「足りている」と、どのくらいで、いつ、手を挙げるのか、約束はできない。「これが自分の力の限界ですよ」なんて言うと、そんなことない、まだ天井いってない、可能性は無限大、なんて言ってくるでしょう?でも同じ場所に長らく止まったままでいると、それ(停滞)いつまでやってるの?、もうそろそろ終わりにしよう(=早く動き出せ)、もう十分・ここが(時間の)限界だよって告げてくる。少し耳を傾けて、そして首を傾げて、「そうなの?」って思って黙ってるんだよ。

「今はタイミングじゃないんだよ」とか「まずはゆっくり休んでね」なんてのは、都合よく解釈できる甘やかしの戯言だったね。リミットを示されなかったその言葉たちは、各自の思う期限を迎えて、煙のように消えていった。現状を知れば、「まだそんなところに居たの⁉」なんて驚かれそう。生まれてくるのも、死ぬのも、タイミングを選べないのに、進行方向や成長速度、過程や老化には“なんとなく一緒”とか“同程度・似たような感じ”を当てはめて考えてしまうのは、どうしてかな。私も囚われているんだ。「人それぞれに異なったタイミングがあるのだから」と頭の隅にあっても、どうして他人の言う「もうそろそろ」に同調して行動できないんだろう、と考えている。私に対する焦りが、私自身の焦りに変換されてもなお、タイミングは“今”、とならないのは何故だろう、と考えている。

 

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Remind

希望はあるかと訊かれてないと答える。求められているのはその内容だとわかっているけれど、何もないということは絶望というわけでもないよ、と茶化して言ってみたりする。何かを選び取るのを待っている視線を感じている。私が立ち上がりすらしないので、周りから「Oh...」と洋画ホームドラマのSEばりの声が聞こえてきそうだ。

私が当時そうだったように、冬休みの宿題それ以上に、年明けの登校再開を今から憂鬱に思う子供たちを見ると、全部全部、今だけの問題だったらよかったのにね、と思う。現実はいつまで経っても憂鬱だ。同じよーうな似たよーうな気持ちは何年経っても、大人になってもやって来る。「救いのないことを言うな」って誰かに怒られてしまうかしら。

あの時に、あの頃に、とは他人から言われることの方が多いけれど、あれは単なる質問だろうか。私自身は大した後悔はしていないのだ。全く無いと言えば噓になるが。たらればで妄想する分には楽しいし、「もし異なる選択をしていたならば」の結果がわかるのなら是非教えてほしいけれど、今の所誰も発見できてないじゃん。過去の小さな異なる選択が大きく今の私を変えた“かも”しれないけれど、それが幸か不幸かはわからない。「あの頃に戻れたらもっとちゃんと...」と思わなくもないけれど、現記憶を保ったまま過去を再度生きられるとしても、結局同じ選択をしちゃうんじゃないかなと思ってる。私の本質というか、本能が、ここまで導いてきたのだとしたらね。今の私に、「できるなら過去をやり直したい」と言ってほしい人がいるの?後悔して、落ち込んで、項垂れてほしいということかしら?「間違えてきた...そして今も」と肩を落とす私に「悔やんでも過去には戻れないんだから」と当然のことを告げ、諭し、励ますことでマウント取ってくる人とかもいるのかしら?なーんてね。人を疑いだすとキリがないし、なにより一番信用ならないのは自分。「後悔なんて無いよー」も虚勢かもしれないし、誰も私の懺悔もたらればも、熱心に聞く必要はないんだよ。だからあんまり、過去の選択に注目してほしくもないな。

時代が変わって「これが子供の頃にあればなぁ」と思うものも出てきてるよ。でもリアルタイムで進行中の命は、その時間空間でしか生きられないから。今の社会に中学生の私がポンとやってきても、現在の歳まで生きてられない気がするなぁ。あの時代だからこそのほほんとしていられた気もする。どうにかこうにか繋がってるのは、私の本能だけじゃなくて、生かされた世界のおかげでもある。今が満たされているというわけでもないが、“足りない”がそこかしこにあって、それはそれである意味幸せ、だったのかもしれないね、あの頃。

 

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曖昧模糊

夜に閃いたことを、明くる日に実行できない。起きられないし、“それ以外”のことに追われて手つかずのまま忘れ去られる。「今年はもういいや...」と呟いて思考停止すれば、安心して目覚められるかというとそうもいかない。“何も起きない”ことは充分わかっているのに、それでもまだ朝が怖いのか、夢を延長した後の“一日”はかなり短い。

許してもらえている環境がある。見ないふりは全方向で解決にはならないけれど、一時の安心感を得られる。朝が夜になっていくのにも、お腹が空くことにも眠くなることにも、抗えない。でも、気持ちがついていかないってのはあって、飲み込んで喉元過ぎるまでの不愉快とか寝落ちしたのに悪夢で中途覚醒とか、時々、自分がバラバラになっていく感じがする。それらを“通常運転”として処理できるのは、また処理してもらえるのは、間違いなく恵まれている環境だ。「ここから幾ばくもない」と「ここからは無限」は同時に語られる、とは以前も言ったことあるかもしれないけれど、“慣れ”が“健全”であるとは、誰も信じちゃいない。「ドウシヨウモナイ」が「ドウニカセネバ」に、なんてそりゃあ大変身だ。簡単じゃない。それなのに、現状の甘やかしは微かな期待を含んでいる。平穏を望んで、一発逆転も望んで、いいとこどりしたいんだね。他人も、私も、だよ。

はっきりしたことが何も言えないのは、はっきりした自分の形がないからだ。他人に名乗る明確な意思もないし、胸を張れる肩書きもない、実績や過去の記憶も薄く、“自分”であることの能動性を失っている。「今日こんなことがありまして...」と説明のような状況報告も言えないのは、本当に“こんなこと”に該当することが無いに等しいからだ。いや、細かく言えばあるのかもしれないよ?でもそんなの誰も興味ないでしょう。自分が幼少時の両親以外は。そんな優しい両親さえ、今は目新しい報告を待ち望んでる。何もないけど。何も聞かせられないでごめんだけど。

「私は何者なのでしょう」なんて溢した日には、「何それ思春期?」なんて嘲笑される界隈。それに“浸る”のも“溺れる”のも阿呆らしい。「ロボットになるのも一興」と言えば「舐めてんのか」と狩りに来られる。無邪気でいるのより、無邪気でい続ける方が技術いるよねぇ。「明日、仕事します」「はい、わかりました」の単純な会話が、一生適用されない気がして少し哀しい。「今日は○○を食べました」で認められる存在は、“何か”を下支えに成り立つもんだよ。それを発言する前に“まず、これがあり...”と説明できるような土台を持つ人だけが持ちうる価値。基本がなってない、とでも言いましょうか、軸が揺らぐ...なんて言う人もいるけど、軸なんてないないと冗談半分に聴こえるように、本気七割くらいで言っている。

 

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