こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

timing

ここから数日は「あなたどうするの」と言われなくなるから気楽でいい。心配の矛先が分散するし、世間的にも休んでいても“おかしくない”時期だから。朝寝坊にも暴飲暴食にも共犯が居て、小言は少しの間閉じていてくれる。もっとも、期間が明ければ言われて当然のことなので反発するつもりもない。

いつまでも眠る私、生きているか心配されるくらい長風呂に入っている私を横目に、模索してくれているのを知っている。でも何も見当つかないでしょう。私が言うのもなんだけれど。“どうにかする”ことをせずに、“どうにかなってきた”結果だと思うの。「端から寄っ掛かる前提置いてるよりマシでしょ」と言いかけるけど、結果的に生かしておいてもらっていることには変わりない。潔さなら、「端からよろしく」言っていた方がもしかしたら“マシ”だったかもしれない。「あなたは自由な人、だからもうあれこれ指示しない」と言わせてしまって、けれども“指示待ち”のような態度を見せてしまってもいる。「こんなにも動かないことに困るなら、動き回って遠くへ突っ走ってく、それを止めることに苦労するほうが、まだよかったかも」なんて、ないものねだりももう十分抱かせているのだ。

「今のあなたの休息だって、もう十分でしょう」と言われた。それはちょっと「決めかねます。」自分のことだけれど。満足のタイミングがわからない。そもそも満足を求めるものでもないのかもしれない。「足りている」と、どのくらいで、いつ、手を挙げるのか、約束はできない。「これが自分の力の限界ですよ」なんて言うと、そんなことない、まだ天井いってない、可能性は無限大、なんて言ってくるでしょう?でも同じ場所に長らく止まったままでいると、それ(停滞)いつまでやってるの?、もうそろそろ終わりにしよう(=早く動き出せ)、もう十分・ここが(時間の)限界だよって告げてくる。少し耳を傾けて、そして首を傾げて、「そうなの?」って思って黙ってるんだよ。

「今はタイミングじゃないんだよ」とか「まずはゆっくり休んでね」なんてのは、都合よく解釈できる甘やかしの戯言だったね。リミットを示されなかったその言葉たちは、各自の思う期限を迎えて、煙のように消えていった。現状を知れば、「まだそんなところに居たの⁉」なんて驚かれそう。生まれてくるのも、死ぬのも、タイミングを選べないのに、進行方向や成長速度、過程や老化には“なんとなく一緒”とか“同程度・似たような感じ”を当てはめて考えてしまうのは、どうしてかな。私も囚われているんだ。「人それぞれに異なったタイミングがあるのだから」と頭の隅にあっても、どうして他人の言う「もうそろそろ」に同調して行動できないんだろう、と考えている。私に対する焦りが、私自身の焦りに変換されてもなお、タイミングは“今”、とならないのは何故だろう、と考えている。

 

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