こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

書かなくて

ここ数年は年賀状を書いていない。出す相手もいないし。なんだったら「あけおめ」すら言わないかもしれない。数人と生存確認のためのやりとりぐらいはあるだろうか。今まで印刷の年賀状は作ったことない、いつも手描きだったから。子供の頃は相手が多いほど面倒くさがりつつも楽しかった。学校に行かなくなってから出す人数も来る人数も減ってきて、夢中な時は絶対書かなきゃ、みたいに思ってたけど、反動なのか、やらなくなると全く何もしなくなったし気にも留めなくなった。元々“絶対”ではなかったということかもね。今は絵の上手い親戚のハガキを見ることだけが毎年の楽しみで、LINEで少し皆が生きていることが伺えれば、それで十分だろう。

絵を描くことがあんなに好きだった子供時代。どんな色を選んで、どんなことを描いていたのか、今はほとんど思い出せない。絵も字も上手なじいちゃんに褒められることが嬉しくて描いていた。「うちの家系でじいちゃんの“描画系”を継いでるのはアンタだけや」と言われて育った。実際上手いかはさておき、そう言われるのは誇らしかった。今でも夢にじいちゃんが出てくると嬉しい。(何か言いたげな時期に登場することが多い。)ちなみに私の字は全然綺麗じゃなくてコンプレックスなくらいなのだが、“書く”ことも“描く”こともそのこと自体は好きなのだ。じいちゃんが残したものを見ると、習っとけばよかったなぁなんて思うけれど、たぶん“習う”ような関り方じゃなかったんだよな。小さな私はその膝に座って、チラシの裏に黙々と謎の絵を描いていた。ひらがなの練習もしていたかな。頭の後ろから優しい声で「うまいうまい」と呟いて、そっと見守っている、そんなじいちゃんだった。そんなことを思い出すとなおさら申し訳ないくらい、今は絵も描いていない。成長してから、年賀状こそが手描きをする貴重な機会だったのに、それもやめてしまって。前に、文通をしたり、チェキや写真にお絵かきしたり、ペンを長時間握っていた日々がもはや懐かしい。決して上手とは言えなくて、時にサボりたくなることもあったけれど、ちゃんと“私”を表現している気がしていた。

また年賀状を再開する日が来るかしら。“そういう”交友関係が始まればあるいは。こんなにもペンを持たなくなることも、友達がいなくなることも、全く予想していなかったけれど。でも、これが本来の私よ、と言い切るには証拠不十分かもしれない。コミュニケーションに関わる“書く”“描く”ことの行為を、拒絶してやめているわけじゃないから、またやる気が出る日が来れば、また夢中になれるのやも。何にせよ、それ以外の、例え未知の領域でも、“描画系”を始められたなら、またじいちゃんを思い出せる気がしている。

 

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はっぴいほりでい

クリスマスを“祝う”という感覚は私の中にはない。クリスマスパーティーに託けてコスプレしたいだけだったり、ケーキを食べたい・ほんの少しごちそうを食べたい、だけ。私自身は無宗教に近いし、ハロウィーンも同様に街中でどんちゃん騒ぎはしないけど、きっとその辺りの多くの日本人と同じだ。そこまで深く考えていないが、祭り気分を味わっている。でも祈りはあってもいいかな、と思う。恋人と過ごすロマンティック...よりは、家族団欒をゆっくり楽しむ、という方が好み。もちろん、ひとりでも、喧騒から離れて心穏やかに過ごす日として捉えていてもいいと思う。年末に「この一年への感謝と来年への希望」をただ静かに祈れたら...。

小さい頃から“サンタクロース”の認識はあって“いい子にしてたらプレゼント貰える”というのは私にも馴染んでいる物語だけど、恋人とか友達同士でプレゼント交換するという文化には未だにしっくりきていない。今までで経験あるし、悪いこととは決して思わないけれどね。でも贈答苦手派としては少し困っちゃう事象なんだよなぁ。誕生日とか記念日の“一方通行のプレゼント”ならまだ、頑張れるんだけど。クリスマスに「プレゼント忘れててごめんね」って昔恋人に謝られたとき「え、何が?」って思った。言った、実際に。貰うものと思ってないし、貰う日だという感覚もなかった。私も当然用意していないし。誕生日や記念日以外でもし何か贈り物をしたいと思ったなら、別にクリスマスに捉われなくてもいいんじゃない?って思う。交換が絶対条件になるのも気まずいし。一般的に浸透してるバレンタインとか勤労感謝の日とか、むしろ何でもない日でもいいんじゃない?どうせ同じ日は二度と来ない、毎日が別モノなのだから。フェスティバルを楽しむ気持ちも、それを見守る気持ちも寛大であってほしい。プレゼントとか恋愛絡みで、変に圧を感じるようになるくらいなら、「メリークリスマス」ではなくただの純粋な「ハッピーホリデー」で在ってほしいよ。

TVで北欧のクリスマスを紹介してていいなって思った。煌びやかで元気なパーティーじゃない、キャンドルで細やかな光と温もりを囲む夜。そういう“特別”の表し方も素敵だったな。私は...ブッシュドノエルとかシュトーレンとか、お誕生日ケーキじゃないスイーツを食べて夜更かししたい、それくらいかな。宗教観なく日本人は何でも乗っかると揶揄されることもあるだろうけど、私は愛嬌だと思っているよ。何でも取り入れて愉快になりたい気持ちは誰に責められるものでもないと思う。ただ、陽気の度合いは人それぞれだから、関わり方は自由であってほしいね。ホワイトクリスマスも一瞬を切り取れば美しいけど、実際は、寒いから外出するのは絶対に嫌だ。

 

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オイトイテ・オイトイテ

人を思いやっているようなことを言うのは、優しいからではなく、自分に頓着を無くすという、現実逃避だ、私の場合。本来、自分に向けるべき意識を、自分にかけるべきエネルギーを尽くすことなく、「人のことばっか言ってる」ということだ。“自分本位”になりすぎるのも良くないが、自分あってこその他者との“共存”なのに、自分をほったらかして本末転倒している。他人事に口を出すのも“余計なお世話”だし、主語がいつも自分以外になるのも、自分自身にさして話題が無い...彩が無いということである。当然“今考えるべき”は自分のことであるのに、他人事・世間や社会のことを巡らせて、それらに感情も時間も割いて、文字通り逃げている。

自分が、たとえいろんな世間に首を突っ込んだとしても、他者に何の影響も及ばないことに少し安心している。けれど、少し寂しいとも思っている、かもしれない。私が大号泣してもニュースで流れた悲しい出来事はなかったことにはならないし、私が憤怒しても、遠く離れたあの人の怒りは収まらない。私が体調不良になっても、世界のどこかで消えゆく命があるし、私がご機嫌に歌っても、それで解決する問題など無い。少しでも落ち込む気持ちがあるなら、それは自分に期待しすぎでは?と思うけれど、自分が“何か持っている”自信があるかと問われれば自信はないと答える。私はほぼ“無益で無害”だと思っているのに“自分以外”にばかり振り回されるのは、必要以上に感情移入しすぎ、共感しすぎ、ということだろうか。

こうやって自分語りを続けてきて、大変なナルシストか、相反する自己無頓着か、考えていたけど結局どっちもある。酔うまではいかなくてもナルシズムは絶対にあるし、無頓着といいながら恥も外聞も無しに...とまではいっていない。ただただずるいだけかもね。“行動”しない理由を説明するのさえ煩わしくて、“他者”や“世間”への意識で隙間なく埋めて、自分を延々と“置いといて”してる。静止画にはなり得ない毎日を刻一刻見過ごし続けている感じ。“コレジャナイ感”はあってもどうしたらいいのか、わからないな。

全人類の幸せを願う気持ちは、小さくても確かにある。と同時に、全て、何もかもがどうでもいい、誰がどうなろうが私には関係ないのだから、という気持ちもある。矛盾に納得しているようで、あらゆるところにその“引っかかり”を引き摺っている。だからこそ自分なりの普通や平常を、優しいだとか強いだとか自己犠牲だとか甘えんぼだとかか弱いだとか真面目だとか、あれこれ評価されると自分が思っている以上に胸をぐっと圧迫される。ぐえぇ~っと声に出して何かを吐き出している。気にしすぎなのも問題あるし、気にしなさすぎなのも弊害あるよ。

 

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