こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

たたかわないたたかいかた

人の話を聞いていて、ゲッと思うタイミングがある。結果をすぐ二元論でまとめようとしていることに、気付いた時だ。二元論自体を“良い・悪い”と判断するのも、既に飲み込まれている感があるが、私は物事をすぐ二元論化したり、対立様に持っていこうとする人が苦手なのだ。例えどんな極論を含んだ事象であっても、二元論で“まとめる”というのは単純化したい、結論を急ぎたいという意志の元行われるのかもしれない。私はそこに、どう表現したらいいのかわからない危機感と不安感を持ってしまう。

単純に善悪で分けられない、そのこと自体に何の“問題”があるのだろう。成功と失敗、男と女、できるできない、有り無し。そうやってクッキリ分けられない方が、私はむしろ“好き”かもしれない。(カテゴライズを嫌っているということにも通じるか。)矛盾を嫌う人はそこに厳しいのだろうか。二元論で語らないと“不都合”なこともあるだろう。その論じ方や語ってる人が嫌いなのではなくて、そこに対抗心や競争心、反発心を盛り込んでくる話し方が苦手だ。

以前話した中だと、女性特有の不調についてや女性の仕事と育児の両立についての問題提起や改善案の話し合いに、「女性ばっかりずるい、男性のみの優遇はないのに」とか「男性だって両立頑張っている!」という意見が出ていた。確かに正論、かもしれないけど、なんだってそう“対抗”のように述べるのだろう、と思った。女性性特有の問題を解決するように、男性性特有の問題があるならそれも解決に動くべきだと思うし、確かに仕事と育児を“頑張っている”という事実はあるんだろうと思う(割合や頻度や実質統計で数字として表されるものはとりあえず置いといて)。私は“全て”の人間が抱える問題は多種多様で、それらを本当に“全て”解決できるなんてのは途方もないことだとは思ってるんだけど、とはいえそのうちひとつでも解決に向かって、できる限りの“心地よさ”を手に入れられるなら、果てしないからと歩みを止める必要はないと思っている。「女の方が」「男だって...」と、そうまでして男女を分けたい意思は、解説や問題の細分化以外に私には計り知れないのだが、たとえ道を分けたとして、あらゆる人間の抱えた問題を解決する(まずはひとつひとつから)ではどうしてダメなのか。「女はしんどい」と言った人に対して「男もしんどい」と言うならわかるが、「男の方がしんどい」と言った人は何を求めているのだろうか。(ちなみにそのセリフを言うのは対象と同性とは限らないのである。)もちろん、比較や競争全部を否定するつもりはない。対抗心が向上心に繋がる、というのも理解しているつもりだ。でも今回の例のように、性差とか優劣を元に対立を煽って、議論を足踏みさせる人、そういう話し方にでくわすと、一瞬引いて、話を聞き続けてげんなりしてしまう。なんていうか、私の口には合わない空気、みたいな。ぃゃ、言ってることは解るんだけど、自分が求める結論ありきですか?みたいな。

 

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堂々秘密

気付いたのだけれど、私は自分の領域に入ってくるものに対しての警戒感、そのツボがとても浅い。地雷、はまた別にあると思うからそこまでのものじゃないんだけど。純粋な好奇心が向けられたとき、どうして私がそれに見合った“答”を差し出さなければならないのと、一度ぐっと身構える。内容は些細なことだよ。それら全てが個人情報に該当するとも思っていない。でも、プライベートの切り売りにはずっと違和感があって、例え大きな見返りがあったとしても、公じゃなく個人相手だとしても、形のない情報だとしても、いきなり求められると「不躾だな」と思うし、一歩引いてしまう。「まだ“関係”という関係も築いていないのに?」「でも関係を築く始まりとして“知る”ことは必要な気もする...」一瞬で高速回転する迷いの後、ぽろっと話してしまうことが多かった人生だけど、いい加減“ついうっかり”で汚点を残すのはやめて、“内緒”を貫き通したいと考えている。

いくつかのプライベートな質問が、話題作りなのはわかる。その機会に“人間関係の構築”を始めましょうという意思も理解できる。例えば「ご兄弟は?」という質問だって、続いて「自分と同じですねー」とか「私は○○なんですー」とか会話に繋げていくのは、とても基本的なコミュニケーションだと思う。でも、最近の私は、まぁお見合いならまだしも、普通の“出会い”“知り合い”の中でそう気軽に質問されると、一瞬壁が出来てしまう。私の人となりを知るための質問だとわかっていても、なんとなく一歩、後ずさりしてしまう。もちろん、相手が私から引き出した言葉や情報でどうこうしようとしているわけではないことはわかっている。元々人を信じにくいタイプではあるが、それをわざと主張するのも、いじわるというか、相手に失礼かなとも思うし。あと押しに弱いので、結局ぽろぽろ溢すこともあるけど、本心としては、あまり自分を“解体”して“私とは何か”を他人に探られたくない気持ちだ。私のことを私以上に知ってる気になられるのも嫌だ。「あなたが生きる上で私についてのソレ、知る必要ないでしょ?」って思うことは、具に答えたくない。とか言ってると、何でも「さあ?」って言いたくなるのだが...それじゃあ、というか道理で、人付き合いが無くなっていくわけだ。自分で基本なんて言ってるコミュニケーションのひとつを放棄したがってるわけだから。

自分の文章や絵や頭の中をこんだけひけらかしておいて、恥ずかしがってるとしたら自分でも「どういうわけ」って思うよ。でも「自分の手の内を見せて」と言われるのは、恥ずかしいに近い拒否感。「いいじゃん減るもんじゃなし」と言われるようなレベルのことを頑なに明かさないのは滑稽だろうか。変に大胆で求められていないものを公開して、人が食い付いてきたことはあれもこれも秘密。そうしたい理由は不明だけど、そうしたいからそうしてる。

 

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続きを生きてる

昨日書いた感情を引きずって、今日も度々泣きそうになっている。観なければいいと思うけど、メディアが投下してくる様々な情報に心ぶん回されてばかりだ。ただ、「お気持ちは」と訊いた例の記者、あれだけは解せぬ。心を鬼にすることはあっても、心無いことをジャーナリズムに擦るのだけはやめてくれ。本当に。そこに映し出されたものがひとつの「親より先に死ぬべきではない理由」だとして、自身に適用されないとしても、胸が痛い。あんな小さな箱に納まって、あの美しい声はそこにはない。

私は、怒涛の涙を流そうが、彼女を人間を世界を寂しく愛しく思おうが、現世にこうしてのほほんと生きてしまっている。感情は慌ただしくとも、なんら変わらない日常。とすると、いつまでも「悲しい」だけで呼吸していくわけにもいかず、私は私の生活をしなければならない。世間に、遠くの国に、近所に、知り合いに、赤の他人に、“何か”が起こったとしても、まずは己の“平常”を生きるしかないのだ。“普通”の生活の中に、ちょっとずつでも“想い”を込められたら、とは思う。

悲しい気持ちを癒すのに、音楽だと思った。でも関連した曲を聴くたびに、「もういない」ことにショックを繰り返してしまう。だからただ自分の好きな曲を、自分で歌うことで苦しさを吐き出している。今は咳が酷いしカラオケも行けてないから“精一杯”とは難しい。音楽アプリで家で歌うと“一生懸命”とか“全身全霊”とかにはなれない所がもどかしい。早く全力で歌いたいものだ。私は自分の歌を上手いと思って聴いてはいなくて、ただカラダという楽器から音=声が出ている、という状態が好きなのだ。音楽“鑑賞”はもちろん好きだが、自らが奏でたくなるのは、自分に似合ってない衝動であるのはわかっている。

「つらい時、誰かと話すと楽になるかも...」それは確かにそう思う。メディアで相談先をいろいろ紹介していて、必要な人に必要な情報が届けばいいなと思う。「前々から苦しんでいる人」でなくてもいいんだよ。ニュースを聞いてとか、感情に引っ張られてとか、「後追い」を警戒されているのも、とてもよくわかる。「助けを求めて」という発信は、その場限りでなく定期的に必要なのかもな、とも思った。では、“つらい”でもない“悲しい”でもない、落ち込んでいるでも困っているでもない、“無”だったりやる気がない時の解消法は、果たして同じだろうか。悲しみよりも悩みよりも、この感情は、「話しても意味ないし」って気になってしまうの、もしや私だけだろうか。高度な授業にテンパって「何がわからないのかがわからない」と言うのと同じように、「何が問題なのか、自分がどうしたいのか、自分でもわからない」という状態。悲しみは浴びつつも、根本は変わらないようだ。

 

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