続きを生きてる
昨日書いた感情を引きずって、今日も度々泣きそうになっている。観なければいいと思うけど、メディアが投下してくる様々な情報に心ぶん回されてばかりだ。ただ、「お気持ちは」と訊いた例の記者、あれだけは解せぬ。心を鬼にすることはあっても、心無いことをジャーナリズムに擦るのだけはやめてくれ。本当に。そこに映し出されたものがひとつの「親より先に死ぬべきではない理由」だとして、自身に適用されないとしても、胸が痛い。あんな小さな箱に納まって、あの美しい声はそこにはない。
私は、怒涛の涙を流そうが、彼女を人間を世界を寂しく愛しく思おうが、現世にこうしてのほほんと生きてしまっている。感情は慌ただしくとも、なんら変わらない日常。とすると、いつまでも「悲しい」だけで呼吸していくわけにもいかず、私は私の生活をしなければならない。世間に、遠くの国に、近所に、知り合いに、赤の他人に、“何か”が起こったとしても、まずは己の“平常”を生きるしかないのだ。“普通”の生活の中に、ちょっとずつでも“想い”を込められたら、とは思う。
悲しい気持ちを癒すのに、音楽だと思った。でも関連した曲を聴くたびに、「もういない」ことにショックを繰り返してしまう。だからただ自分の好きな曲を、自分で歌うことで苦しさを吐き出している。今は咳が酷いしカラオケも行けてないから“精一杯”とは難しい。音楽アプリで家で歌うと“一生懸命”とか“全身全霊”とかにはなれない所がもどかしい。早く全力で歌いたいものだ。私は自分の歌を上手いと思って聴いてはいなくて、ただカラダという楽器から音=声が出ている、という状態が好きなのだ。音楽“鑑賞”はもちろん好きだが、自らが奏でたくなるのは、自分に似合ってない衝動であるのはわかっている。
「つらい時、誰かと話すと楽になるかも...」それは確かにそう思う。メディアで相談先をいろいろ紹介していて、必要な人に必要な情報が届けばいいなと思う。「前々から苦しんでいる人」でなくてもいいんだよ。ニュースを聞いてとか、感情に引っ張られてとか、「後追い」を警戒されているのも、とてもよくわかる。「助けを求めて」という発信は、その場限りでなく定期的に必要なのかもな、とも思った。では、“つらい”でもない“悲しい”でもない、落ち込んでいるでも困っているでもない、“無”だったりやる気がない時の解消法は、果たして同じだろうか。悲しみよりも悩みよりも、この感情は、「話しても意味ないし」って気になってしまうの、もしや私だけだろうか。高度な授業にテンパって「何がわからないのかがわからない」と言うのと同じように、「何が問題なのか、自分がどうしたいのか、自分でもわからない」という状態。悲しみは浴びつつも、根本は変わらないようだ。