こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

ハサミなんかなくとも切れる糸なら

時々夢に出てくる、私の親友。車で5分くらいの所に住んでいるのに、もう何年も会っていない。親友と思っているのも私だけかもしれない(もう何度も書いてる)。夢に見るのは私の願い、なんだろうな。恐らく死ぬ前の私が「最後に...」と彼に謝っている。実際には今すぐにでもLINEででも言いたいこと言えばいい話だし、言ったところで何も効果も影響もないことなのだが。

もうほとほと呆れかえってるか、興味がなくなったんだろうな、今の状況は。では今の“関係の状態”を共有している私も同様の心境かというと、違う。申し訳なさこそあれど、呆れても飽きてもいないし、連絡を取らなくても好意は変わらない。長年いい距離感だと思っていたけれど、向こうはそうじゃなかったのかもしれない。確かめて確かになるのだったら、それなりに傷つくから、ずるいようだが今は放置している。

私の人間関係は、コロナ禍と関係なく、ずっとこんな感じなのだ。毎日連絡を取り合う熱量高い友人もいないし、家族とも毎日一緒にいたいかというとそうでもないし。恋人だからと毎日の連絡を強要されたら絶対病むし、遊びに行かないなら友達じゃないと言われたらもう友達じゃなくていいし。「相手に伝えてないけど思ってはいるよ」って正直意味ないんじゃ?とも思うけど、事実だよ。知る術はもちろんないけれど、相手も似たような感じだったらありがたいな。連絡してないけど頭の中にはあるよってことがわかったら、もうそれで。それだけでいい。この世を離れるときは、なんとかして伝わるようにするからね、と今は考えている。

自分のことを、もうこれから新たな関係を開いて構築していくのは無理なんじゃないかと思っている。新たに出会った人と、交流し仲を深め心を開いていくことが、全然想像できない。だから過去や今辛うじてある繋がりに、しがみついてるんじゃないか。もちろん嫌な思い出の当該人物は忘れ去りたいところだけれど。“継続”も“深める”ことも難しいのに、“開拓”なんてできる気がしない。今ある繋がりを大事にしたい。けれどもそれも、このままだと難しいんだろうな。私は何も努力していない。時の流れるままだ。

夢の中の私はしおらしかったけれど、現実で親友と対峙する私はいつもおしゃべりで身勝手だ。かまってちゃんと言われるのもなんか癪だし、ワガママにももう慣れっこだろうから、本当に消滅しそうな時の直前にだけ、今の気持ちを教えてあげることにしよう。それまではずっとふざけたままでいよう。あの子が私のこと「結局なんとかなる人間」と思っている間は。

 

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どちらともいえない世界をしたたかに

私は心のどこかでドラマティックに憧れていて、だけど同時に刺激の連続には拒絶反応を示す。少しの挑戦も冒険もしなければ、事はドラマティックになんか展開しないのに、ただ夢を見ている。ハイリスクもローリスクも、自分にとってはただ起伏のある刺激でしかなくて、それらに振り回されることを端から拒んでいるのに、ふと唐突に必要なんじゃないかと思いつく。いくらか人に話すと、どちらにしろ背中を押そうとしてくれるのだ。どっちに転んでも、君の人生、応援する、と。嬉しいような、残念なような。最後の一押しを他人に期待するのは何ともずるい気がして、散々甘えて生きてきた自分をさらに極甘に仕上げてしまう。

芸能人や有名人の世界では、したたかに生きねばというけれど、それって別に一般社会でもそうじゃない?結局、息できなくなってあっぷあっぷになった者から脱落していく。そこにどんな美しくいじらしい過去があったとしても、一発逆転劇を自ら起こしたとしても。今を曝け出した時、もう爪先ひとつでも見えていなければ、まるでなかったことにされる。ふと掬い上げられるのは、居なくなって何十年後だったりね。一般のこの世界だってそうだよ。“適合”があまりにも強敵でさ、戦うのも無理なのに共生もできない。「あんなに普通にできてたじゃない」と過去をつまんで比較されるイメージ、どうもまっすぐに届かなくて。“らしさ”を担ぎ上げる空想世界、“なじむ”ことを遠回しに強制する現実世界。賢く、したたかじゃないと、“平気なフリ”もできないし、呼吸の仕方もわかんなくなっちゃう。

人生や日々の生活の、いかなる質問に対してもはっきり答えられない。幸せですか?楽しいですか?そうではない、ならなんなのですか?それはそもそもどういうことですか?5段階の選択肢なら、私はいつも真ん中の“どちらともいえない”を選ぶような人間だ。当てはまる言葉がないときは、そうする。いつか、ピタッとハマる答えが出てくることを、もうずっとずっと待っているんだ。

胸の内を語った後、いつも「何を偉そうに」と自分に思う。世の中の多数を多数だと決めつけているし、自分のことよくわかってるような顔して...ホントは全然わかっていないくせに。「世界」というけれど、私が知っているのはただ“知っている限り”の世界だ。「みんな」もこれまで出会った人・もののこと。知らないものはとことん知らないし、知っているものは―その中のごく一部に微かに触れている程度―ほんの少しでしかない。それを大きな、広義のように言いがちなのは私の悪い癖だと思う。でもどうか、インナーユニバース的な話なら、できるだけ見逃してほしくもある。私の目は外に向いているようで、見てはいないのかもしれないな。

 

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居るなら彼方

「あの人に幸せになってほしい」という思いも、過度な押し付けになることがある。どうあれば幸せと感じるかは本人次第なのに、こちらの理想像を当てはめて正誤を判断するのは些か傲慢にも思える。“人の幸せが我が身の不幸”になる場合は、嫌味のひとつも言いたくなるだろう。人が己の信じる幸せに突き進んだ結果、周囲に迷惑をかけたり不快感を与えることは、はっきりと善悪を付けられない、妥協が必要な事情なのだ。皆が自由に生きるというのは、やはり現実的には難しいことなのかもしれない。幸せになる自由、不幸になる自由、昂る自由、悲しむ自由、傲慢にも敏感にも無関心にもなれる自由。共存は、笑ってばっかりはいられないのだろうな。

どんなときも美しき等価交換が成立するわけではない。苦労に見合った報酬、暴走によって受けた傷、奔放への代償、固執することによる不都合、完璧でないことの方が当たり前で、いつも満足いくものになるとは限らない。「過去、沢山の不幸を被った、だから未来ではどうか幸福のみを」と願うことは、決しておかしなことではない。私だって、事あるごとに“せめてトントンになればなぁ”と思っている。けれどもそれは、願いや作戦や努力や運だけで、どうにかなるものではないと思う。自らの望みを叶えるために邁進していく人を誰も止められない。人間の中で生きていく限り、自分につく傷も周りに与えた傷も、ずんずん突き進むその人自身に責任がある。だからこそ、等価交換にならずとも行くんだろう。そして行くべきだ、“そのまま”で生き続けたいなら。けれども―繰り返しになるが―、正誤も善悪もはっきりさせられない、あちらを立てればこちらが立たずとままならない、自分にしろ他人にしろ妥協は必至という状況の中で、何を幸せとするかは本人にしかわかり得ないのだ。例えどんなに心通わせようとも、最も傍で息をしていようとも。

意図せず世の中のコンテンツとして扱われても、自らを消費されに行って、削られて帰ってくるなんてこと、する必要はないと思う。望まない状況に生まれて生きてきてしまって、他人の人生にいつの間にか関連してて、コンテンツ化していることは、恐らく皆あること。それはそれで放置してたらよくて、何の能動的な目的もないのに他者のフィールドに自ら参加しなくていいと思う。目的無く、または意に反して、消費され続けることはしんどいよ。喜怒哀楽、どこに振られても消耗する。もちろんその場合の“消費者”にも問題はあるけど。長い目で見ても己に関係なさそうなことは、何億光年向こうの星、地球の反対側の砂粒だと思って、自分の人生に無理矢理挿入しない方がいい。

 

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