こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

全快を知らない

普段、どこかしらの体調がいつも良くないので、ちょっとぐらいの痛みや不快感には、「これが通常だ」と慣れつつある。もちろんしんどいはしんどいのだが、この体との付き合いも長いから、そういうもんだと思っている。もし全身万全になる日が来たならば、自分自身も周りも物凄く驚くことだろう。「治す気がないのか」と言われるぐらい怠惰な私だからなおのこと。

不調を挙げればあれやこれや出てくるし、病院通いに終わりは来ない。特に通院ということではなく、何かあれば嫌でもお世話になるわけだし、医療とさよならする時は生が終わるとき、というのはわかっている。私みたいな思考だと、自分という存在にそこまで手を掛けてもらわなくても...という気持ちもそれなりにあるが、今の所まだ生をここにキープしておきたいようで、人の手を借りて寿命を引き延ばしている。この前も、見える日常のためにコンタクトレンズを買ったし、現段階でコロナ対策もまだまだ続いている、かかって死にたくはないと、それだけを思って。遺伝性を考えがん検診に行かねばなぁと思うし、病気やケガのそのものより、苦しむ痛む“状態”の方が、私は怖いと感じているのだ。あれ、普段はここが痛いそこが苦しいと言いまくって、不調には慣れてるような言い草なのに、やっぱりより深刻なものには...“深刻”であることや、苦しみの度合いに恐怖心を抱いている。

病院や注射などに怯えて、行きたがらないということは全くない。私はただ体調改善にさえ怠けているだけだ。注射も採血も全然怖くなくて、むしろじーっと見つめていることを心配される。ぃゃ、大丈夫です、ただの興味です。自分の体に対して行われている処置は、職人技を見せられているようで面白い。お金があればいくらでも診てもらいたいものだ。ひとつの健康体を作るための技術料だと思う、そりゃあ安くはない。乳がん検査も子宮体癌検査も、痛かったしトラウマだけどそれで行きたくないとは思っていない。ただただ病院までの道程が面倒くさいだけだ。私でもこんな感じなのに、痛いの嫌だ・病院行くの怖いというタイプの方々は、定期検査とかからもっともっと足が遠のくだろうなぁ。(自分のことはさておき、私は世の女子たちに上記の検査推奨派です。)

人間は神秘的で脆いけど、でも自身だけでできることも小さくてもあるらしい。そうして最終的に「運動しなさい」と周囲のあらゆる人が私に言う。それが真実なのだろうなぁ。「お医者さんというプロの手さえ頼れないのなら(というわけでは実際ないのだけどね、ある程度信頼があるから診てもらう気になるわけで)、自分の体は自分でなんとかしなさい」とまで言われて、「そんなぁ...」とは言いつつ、「まずは」ということだろうな、と理解する。まぁ「まずは」から一向にスタートライン切れてないけれども。まだ自分で出来得ることがあるうちは、生とか死とか大きく畏れ多いものに圧倒されているより、目の前のこの体をなんとかせよ、ということかしらね。

 

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本文とは全然関係ないんだけど、医療ときいて思いついたので余談。

最近のドラマの中でちゃんと最初から最後まで観たにじいろカルテ。医療ドラマかというとなんだか賛否両論あるみたいですが、私はとても好きでした。元より充希ちゃんが好きなので。なんというか、普通に元気な人、何の問題の無い人なんてひとりもいないんだなぁ、そりゃそうだよなぁと思ったのです。近年“多様性”を謳うストーリーは多くなり、このドラマはそことはちょっと論点違うのかもしれないけど、なんか“普通に”“それとなしに”生きるのも大変だなぁとしみじみ思った物語でした。

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これってそれって何

私は自分の好意にまで自信がない。全てがきちんと証明されるとは思わないけど、何かの条件と引き換えに、「本当にそうなの?」と自問することが多い。憧れの人が居ても、素敵なその人の真似をしてその姿に近づこうとする努力はあんまりしない。最初から諦めてる。「その人はそんなすぐに諦めたりしないよ!」と言われると、ますます、「だから。その人と私は違うんだから。その人にはなれないんだから。」と線引きを早めてしまう。また、恋人と不穏になると、ヤキモチやいたり、心配性が爆発したり、昔はしてたけど、今はほとんどスンとしてる。それなりの相手で安心しきっている、というより、なんだかどうでもよくなる。なるようにしかならんというか、仲良しでもモメても、そういう自然の流れなんだなって。相手がもし何かミスを犯しても、一瞬怒るかもしれないけど、それで今後をどうこうしようと考えないかもしれない。自分の方がミスして、相手がものすごく怒ったとしても、それのフォローを頑張る自分が全く想像できない。しれ~っとしてそう。

そうやって、どこかの目的に向かって能動的に行動するってことがない私の場合、前提のように言っている「好き」が、果たして本当なのか、と自分でも疑問に思っている。好意や求める気持ちを、エネルギーに変換できない。できないのかやらないのかも定かではない。“誰々のために”というのが元々欠落しているからか、または感情があまりにもはっきりと区別されているのか―「好き、だから頑張る」みたいなのは成り立たないと思っているのか。とはいえ“何とも言えぬ”という感情もあると思っているので、曖昧に濁せるのならば、私のいう“気持ち”はむしろそういうものばかりで、社会でのわかりやすさのために“好き”とか“憧れ”とか“気に入ってる”とかの言葉を遣わせてもらってるだけで、その実すべてが“~みたいな何か”という、名前の付けられぬ感情なのかもしれない。

「好きの種類がみんな一緒なわけないでしょ」って、少し話したらみんなわかっている風だけれど、そういうものだと納得したり、他と比べようのないそれに自信を持ったり、それによってポジティブに動けるということが、私にはわからない。「自分が好きだと思ったらそれでいいんだよ」と言われたけど、その通りと思うんだけど、ここにある“これ”を“好き”だと言い張れる自信がないし、自信をつけてくれる要素もないから、今こうなってる。“とりあえず”を許して、「嫌いじゃない」とか「他と比べて選び取りたい」とか、言い方を変えてみるけど、なんだかしっくりこない。そう、“好き”も“好意”も、なんかしっくりこないというのが、しっくりくるかも。語彙力少な...。

 

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筋違いの期待だけ膨れ上がって胃もたれ

たまに、努力して“変身”した人を見て、胸がざわつく時がある。便乗するかと思いきやそうはならないのだけれど。でも、180度見える景色が変わったと言っている人を、どういう気持ちで見ればいいのか、正解を探そうとしてしまう。そんなの、好きにしたらいいのに。触発、されたければそうなればいいのに、なかなか動かない自分に、「きっかけはどこにあるの?」と訊いても、答えになるような言葉を差し出せない。

私は意志が弱いなぁと思う。強い意志を持たなければ、と誓う意志がもう弱いので、一向に予想外の結果は現れない。そりゃそうだろ。自分との約束はすぐ破るし、それで損したと感じられないほど鈍い。こういう場所にこうやって言い訳ばかり書いている人間が本当に強い意志など望んでいるのだろうか。大逆転になんて堪えられる気がしない。

己の話はもう沢山だ。と言いたいの、本当は。でも、他人の話もそうそう勝手にしたくはない。私自身のことなら、責任は全部私にあるから、じゃあそこんとこ絞りだそうかな、とすると、結局自己満足の自分語りで埋め尽くされる。「我が、我が」といくと「愛されたいの?」と訊かれる。どうかな、嫌われたくはないけれど。「自分の姿も器量も文章も画も音も、何も誇れるものはないんです。」そんな人の何をかって好んでくれるだろうという話でしょう。でも実際、自分も信じられなくて他人も信じられなかったら、自信なんて降って湧いてきやしない。自分を“述べる”だけでもういっぱいいっぱいなの、わかるかな。

“いい距離感”が欲しい。自分とも、他人とも。自分のことを見つめすぎると、合わせ鏡のように、どこにいるのかわからなくなってくる。他人は、私が気にするほど、こちらのことをまるで見ていない。近すぎるのは煩わしくなるから、遠く離れているのは安心、と思っていたけれど...。相手にとって、私は居ないも同然なら、それは距離感どころの話じゃない。急に同じものを求められた気になる。つまり相互の無、関係の無だ。世の中にこんなに人間がいて、死ぬまでにひとりぐらいは、ベストな距離感の人に出会えるだろうか。それとも、(それまでの期間は短いから、)誰とも実感し合えずに終わるのだろうか。

なんとなく“残したまま”の人間関係がちらほらある。切り捨てるほどの問題もないけれど、これからの展開も積み重ねも恐らくないものだ。思い出とか期待で置いているわけではない、ただ“何もしていない”だけだ。時々目についたとき、私は自分自身に問う。「執着があるの?」「罪悪感があるの?」と。考えたくないな。相手に期待するのもよくないけど、自動でどうにかなってくんないかな、と思ったりする。もしくは私が、一部記憶を失ってしれっとした顔していたい。

 

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