こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

知ってどうなる

お題スロットを回してみたのだけれど、あまりにも書きたいと思うネタがなくて半笑い。なるほど、うむ、人が読みたくなるのはこういうテーマなのか...、う~ん?私は陰キャ過ぎて、周りが何も見えていないのかもしれないな。どのジャンルを引っ張っても、自分の意見にまるで自信がない。オススメとか美味しかったよーとか、自分の感覚を他人になぞらせる勇気がない。私はわりとオープンだけれど、積極的に何でも話し出すわけではなくて、訊かれたら自由に話すって感じ。話し出せばあけすけだけど、求められてもないのに赤裸々なのはあんまり好みじゃない。意図せずやっちまうこともあるから、そのたびに盛大に「あーあ」と思っている。考えてみて、私の昨日の夕飯にどれだけの人が興味あると思う?つまりそういうことで、必要と言われてないのに、“自分”の一部を公開するのがなんだか気が引けちゃう。好きなものとかお気に入りとかそれらに対してのマインドは変わりなくて、自分の“推し”を褒めてもらえたらそりゃやっぱり嬉しいけども。“私の”好きなものという看板をかざすことに妙に緊張してしまう。最初からある程度の共感がわかっていたとしても、「“私の”って付加情報、誰も要らないよね」と、公にすることを躊躇ったり、いざ調子乗って語っちゃって反省したりする。なんだかんだ言っても、脳内をひけらかしてる方が存分に恥ずかしいことじゃないかとも思う。それでも、自分の感覚やスキルを含めたプライベートを晒すことや、自分からレコメンドに対する共感を求めにいくことが、どうにもスムーズにはできないのである。興味はあるからなおのこと悩む。気軽にできたらいいのに、とも思う。いいのにってったって、何がいいのかわからないけど。

 一貫性や統一性を持たなくても責めない(自分を)のがポリシーだったけど、なんでもいいとした結果逆に、脳内垂れ流しという方向に偏ってしまったなと思っている。もちろんその中で矛盾が生じても、ぜひぜひそのまんま の意識はあるのだけど。素晴らしいだとか愛しいだとか、私のもつ“感想”を聴いてほしい気持ちはある。でも共感とか、同じものを好きになってもらわなくてもいいの。私の綴ったただの記録は私にだけ意味がわかればいいから、それに対して評価とか好みの度合いとか、見えてるもの以上のことを探られたくない。その日たまたまそう考えてした行動を、定期的なルーティンだと勝手に解釈されるのも嫌だね、私は人様に誇れるようなことを何一つしてないことだけが確かなの。

これから先、少しずつでも私のこと以外の事・物について語りだしたら、生温かーい目で見てくだサイ。お題も、引っかかるのがあればやりたいと思うけど、決して誰かをハッピーにする目的ではないことは、今の段階で言っておきマス。万が一、私に訊きたいことが芽生えた時は、10年後でもいいんで、訊いてみてくだサイ。たぶん喋りマス。

 

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“何か”とは何か

何かを発信したいのに何も思いつかないという人が、ネタを作るために日常を忙しくする、という方法があるらしい。なるほど。怠惰が基本の私は全然思いつかなかったな。そして、思いついても「やだよ、忙しいのは。」って言ってしまいそう。けれども、行動しなければ何もない、というのも事実だと思うし。レベルの低い葛藤だなこりゃ。

私はここで考え事を晒すしかやっていないわけだけど、それも自己満足の極みで、“全て”を書いているわけでもないし、真実だけとは限らない。現実に目で見えているものも“完全体”とは言い切れないのに、“見たいものを見る”脳内世界には、まだ私自身も知らない私が、しれっと“存在”しているのかもしれない。

好きなものについて嬉々として語る自分が、空想上の人物だと言われてもなんら驚かない。「そういうもの」と想像はできるけど、「これが私」と実感したことはまだないからだ。私の思う、というより、私の体感している自分は、印象が限られていて、「それらでない」となれば、それはもう自分ではないんじゃないかという淡い恐怖と好奇心を同時に覚える。まさしく“生まれ変わる”のならば、それは歓迎する事態なのかしら。私は私以外にはなれない、そしてその自分が嫌いという前提から、意識が覆ることがもしあるのなら、他人事のようだけども、ぜひ知りたい。理由とかきっかけとかはこの際どうでもよくて、その事実を体感したい。

「いずれ稼ぐための先行投資なら厭う必要はない」と言われた。それって生きていく気満々じゃないとツッこむと自分でも可笑しくなった。“何か”行動を、“何か”決断を、“何か”意欲を、と周りが言うたびに、自分以外の方が自分より熱量高くて、うんざりしてしまう。「結果なんてどうでもいい、今この瞬間が大事」と訴える目は、その部分だけ同意する私を突き抜けてまだ在りもしない未来を見ている。気苦労させているんだろう。人の為にと考えられる人はみんなそうだ。自分のことは置いといてでも“私”のことを言う。だから自分のことを置いとけない自己中の気持ちは、半ばわからないのかもしれないな。

無機物の中、変化のない生活でも、哀れまれるのはおかしいよ。それなりに楽しみ、それなりに満たされる。大いに満足するのは、毎日じゃないほうがいいでしょう。上限もわからなくなることが、羨ましいとは思わない。普通を過ごしていないからか、普通の満足とはちょっと違うみたい。ここにかろうじて無償の愛なんてものが在るとしても、意識しなくなったら残るのはたぶん孤独感。それを怖いと思えるうちはまだ大丈夫。大丈夫、そう言い聞かせている。誰にも聞こえないように。

 

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過去をユル・ユル

自分のご機嫌取りはセルフで当然、らしいけど、難しい。だからといって、誰かにお願いするつもりもないけれど、不愉快さやなんとなくの違和感や不快感を、ひとりで一掃することができない。基本は飽きっぽいんだけれど、全く笑えない時間を結構長く引き摺っていたりする。誰かに訴えたってそれは消えないし、ただ疲れるだけなんだけど、自分のために手を叩いても、なかなか解放できない。

過去に囚われたくないけど無理だ。追いかけられて逃げられないのではなく、自ら同じ場所に留まっている気がして、ただのわがままにも思える。私がモンモンとしている間、他の人は楽しい時間を重ねてるよって言われて。それはそれで喜ばしいことなんだけれど、だったらそうである証明を、幸せである事実をちゃんと見せて、“この物語”を終結させてほしい。「“はじまり”から繋がって今に至るこの関係の“おわり”」を早く感じさせて欲しい。ショッキングな出来事で忘れられない過去も、一区切りを重ねていけば、少しずつでも重荷は軽くなるだろう。しかし圧倒的な裏切りも、不可抗な喪失もないままの放置には、いつまでたっても区切りが来ない。忘れることも捨て去ることも、できない。

「許してしまって全てを忘れよう」という人がいる。憎らしいところも、歪んでしまった感情も、己の執着心も、全てを許して心を楽にしようと。辛い過去を何度も思い返したって起こったことは変わらない。ならば、そのリプレイを捨て、恨みを捨て、なんとかしたいと思うような無駄に疲れることは止めて、忘れる。砂を払うように、そしたら前を向いて歩き出せると。うん。それが解放される術だって私は知っている。その通りできたらどんなに楽だろう。しかし実際は、許すことも忘れることもできはしない、自分はそういう人間だとわかっている、つもり。

「許さなくていい、共存していきましょう」という人が居る。全てにおける許しができないのならそうするしかないと私も思う。しかしそれもまた容易くはない、そして引き続き苦しいということだ。“共存”と朗らかに笑って言う域には、私はまだ達していないということだろう。許さない、ならばどうすればいいのか。私が恨もうが許そうが、対象にはもう届かない、何の影響もない。対象が許しを乞うてくることもない。(もしそんなことがあれば、もっと早くに“解決”していたはずだ。)“私だけが覚えている事実”になってしまっても、それを確信してもなお、沼に足を取られている気分なのだ。

“汚点”と言ってしまえば、見続けるのが苦しくて、早々に手放したくなるだろうか。数も一つではないし、それ以外のもので誤魔化そうにも、日常の端々にちらついて思い出してしまう。整頓しきれないのが人間心理と思っても、納得しているフリが上手くなるばかり。

 

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