こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

うたうたいはうたうたいたいといい

久々にカラオケ行ったら全然声出なくて悔しかった。私でも悔しいって思うときあるんだなぁ。マイクで歌うことにブランクがあるのはもちろん、完全に体力不足なのと、基礎的な教育を受けていないからかもしれない。楽器である身体を鍛えるのは自己責任として、歌いたいという意識と現実のギャップを埋めるのに、人に教えてもらうって大切だなと思った。しかし田舎にそんな場所はないので、怠惰が最優先ならば独り遊びの選択しかない。

どうして上手に歌いたいかというと...よくわからない。これといった目標があるわけでもない。ただ歌うのが好きだから、気持ちよく歌いたいだけだ。過去にオーディションも受けたことがあるけれど、歌手になりたいと熱烈に思っていたわけではないから、本気で目指している人達には、だいぶ失礼な参加者だっただろう。ただ受賞者が受けられる特別レッスンが羨ましかった。ちゃんと教えてもらえるってやっぱりいいな。当然、予選敗退レベルにはそれを望む権利すらないわけで。勝ち上がることが目的のオーディションには断然向いていないことはわかっていた。もしお金があったなら、ボイトレに投資は必至だろう。こんなところでも、無目的で無意味な行動と言われるかもしれない。「歌が上手になって、それで何になる」「人生の役に立たない」「目標もないのに無駄な豊かさだ」とか。それはその通りだと思う。歌に限らず、私の微かな意欲は全部、“何にも繋がらない”無意味なものばかりだ。「暇つぶし」と言われても、それはそれでしょうがない。

レッスンなんか受けなくても、学校に通わなくても、師事する人がいなくても、何かと上手な人はいるでしょう?世の中はそれを天才って呼ぶかな。もちろんその天才達も努力を惜しまない人が大概だとは思うけれど。で、言えば私はそのフィールドのどこにも属してないからね。だから、才能でいえば“無い”だし、努力でいえば“していない”だし、運良く望みが叶う人をラッキーと呼ぶなら“ラッキーではない、というかそこまで熱い望みがない”だ。私は自分が気持ちよくなるだけの、自己満足の塊みたいなものだから、上手に歌えたその先に何かあるなんて、端から期待しちゃいけないんだよ。

多少上手く歌えたところで、絵が上手くかけたところで、毎日文章を書き続けたところで、それを先に繋げてどうこうしようという気がないから、生きる術にも糧にもならない。生きていくための目標にそれらを掲げること を何度か勧められたけど、みんなご存知の通り、怠惰だから。実力不足な上に、熱意不足だ。親切な人もサポートのしようがないらしい。それでも今のところはまだ、微かに気持ちがある。「今よりよくなったらいいかもな」程度で。

nanaで時々歌っている。録音の音質も音量も適当すぎて、これも綿密にやっている人から見れば「その程度かよ」と思われるかもしれないが、しかたがない。様々なキャパシティの総合的判断なのだ。歌いたいからやっているが、聴いてもらうとそれは純粋に嬉しい。広い深い繋がりは特に求めてないからSNSとして機能してはいないけれど。投稿を重ねて練習し続けている気になっている。誰にも響かないとしても、歌った・公開したという事実だけが自分を宥める方法だから。

 

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そうじゃないとも言い切れない

現実を見ろって言われると、傷つくなぁ。夢見てるわけでもないのに。否が応でもここにある現実を、ただただ嘆いている。どんな状態でも存在していればOK、はあんまり正しくない。仕方のないことはさておき、仕方のなくないことで構成されている自分を、そんな簡単には“見逃してもらえない”。って昨日、“見逃されている”と書いたばかりだけど、もちろんこの世は私を甘やかすばかりではないのだ。多重される世界で生きていて、ある部分では拘束されある部分では野放しにされている。それぞれに“かくあるべき”という主張があって、事実以上の心配や期待も含まれる。「やればなんでもできるのに」は聞き飽きた。繰り返し訂正してばかり。やればって、やれてたらそもそもこんなこと言われないし、なんでも、なわけないし、できるのにって独自判断でしょ?それ。言われすぎている私が悪いのかしら。そもそも、「私に届け、響け」っていう人の意識がぶっ刺さることが、苦いし息苦しいし鬱陶しくなるの最近。

世の中でクズ扱いされている人の気持ちが、全くわからないって言い切れなくて苦しい。信じられない・最低と言われるような人間の考えに対して、理解度0%なら真っ向から否定するのは、それはもう反射というか、自然な流れだと思う。(行動に移すか否かとか、人間性はまた別にして。)世の中で理解度100%もなかなかないと思うけれど、私はそのクズたちの考え方や心理が、わからなくもないって思うときがある。ときがある、と述べたが、きっとほとんどがそうだ。それが本当に最悪最低で、極悪で残酷なものだとしても、どこかで1%でもわかる気がする自分がいる。そしてそれに少し焦る。人間は多面性で、誰しも狂気を隠し持っていて...なんていっても、倫理上や常識観念上の分別はあるつもりなのに、あんなに“よくないこと”に“共感”するなんて、私も最低なクズのひとりなのかしら、と。もちろん1%の最悪に対して残りの99%で社会的な正義を探して、私という人間の方針には納得させるけれど。「夢や希望に不可能はない」といえば素晴らしいことだけども、反吐が出そうな思想でも「絶対にありえない・そんな人間はいない」とは言い切れない世の中を“見てしまって”いる。私が一切認めなくても、“そういう思考”の人間は存在するし、なんだったら少し理解できてしまう部分もあったりして、自分のことを汚らわしく思ったり客観的に遺憾に思ったりしている。「悪魔にも悪魔の言い分がある。その言い分を許すわけではないが、悪魔が悪魔たる所以に耳を傾けるとき、始まりと結末の姿を見るとき、私が悪魔でない証明を如何にして実現できるか」

 

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壁と掌

核心に近いことほど、誰にも言えない。私の中の、または頭の奥の世界は、存在を認めるだけでは触れられない場所。誰に対しても1枚壁があって、その形状はいろいろだ。薄かったり分厚かったり、透過率60%だったりして、置かれる状況はそれぞれだけども、隔たりがあることは間違いない。それが悪いことだと自分を責めてるわけではないんだ。適切な距離感が作られることも事実だし、皆はともかく私には必要なことなんだと思う。しかし壁を感じない人間が一切いないというのは、なんだか少し寂しい気もする。一番薄い壁でも、世間で見れば強固な部類かもしれなくて、近いようで遠い というか、私と、真の意味で手を繋げた人はいないんだなと思うと、文字通りの孤独感はある。

悲劇のヒロインぶっているように見える?私だっていい加減、人を暗澹とした気持ちにさせる自分語りばかりするのをやめたい。不幸自慢するほどのエピソードも持ち合わせていないし、人の暇つぶしにもならないほど適切適量を守れない。何かの改善や回復を見込んで始めたことではなく、淀んでいる現状をただ実況しているにすぎない。もうそろそろ変わり映えを...と思うけれど、脳内がなかなか様変わりしないので出てくるものも似たり寄ったりの色合いだ。はっきりいって、うまくないのだがどうしようもない。

私が甘やかされているのは、特別だからではない、ただ見逃されているだけだ。大事にされすぎているのではなく、ちっぽけで些細だから重要視されていないだけ。そこでどんなに自己主張をしようとも、急に全てが満たされるわけがなかった。愛されているとしたら、飛び抜けて大切だからではなく、当たり前のようにそこにあったから。自然の一部のような儚さで、どこにでもあるような気軽さで。だからね。恵まれているとしてもそれをどうこうしようという思考に至らないんだ。それを利用しようとか感謝しようとか他人に譲ろうとかそこから逃げ出そうとか。私ごときの右往左往で、周りが受ける影響は少ない。ましてや他人や世間なら全く関係ないはずだ。私をいい子いい子できるほど、世界はそんなに暇じゃない。

他人に興味がなさすぎて、ナルシストと言われてもしょうがない。と同時に、自分語りばかりしているわりには自分を大切にしていないと指摘されすぎて笑えてくる。他人に好奇心を乗っけられなくても、人間という生き物には興味がある。他者がいて、自認のコントラストが深まると思っているし、他人の創作物に囲まれて生きてきている。自分に触れさせないという態度で存在をひらひらさせているのに、他人の掌の行く先は気になって見つめてしまっている。相変わらず勝手だね。

 

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