こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

予想通りに予想外

過去のどの時期を思い出しても、そこから先がどうなるか、今現在がこんな感じであることを予想だにしていなかった。元々、未来予想をしたり将来の目標を立てたりはあまりしてこなかった人間ではあるが。何となく思っていたその時点での近い未来、例えば数年後の妄想も、何一つその通りになったことはない。小学生の頃の、何の根拠もないが表明した夢は叶えられると思っていた純粋な私はいつの間にか消えて、来年のことすら「それはお約束できません」と初っ端から言うような人間に育った。「夢を持つことは大切」とは思ってきたが、叶わない事実や自分の無力さを突き付けられることに当然恐怖があったし、そもそも先々の目標を立てること自体が苦手だ。順序やバランスにこだわれば、本来の内容はそっちのけになる。あれこれ妄想を広げれば、それはもう私のフィールド外の全く別世界の物語のようだ。先々をネガティブに妄想して心配しても、それが良いように転べば、「ああ予想外になってよかった」となることもある。目標や夢は基本ポジティブなものをそう呼ぶでしょう?それが覆るとなると、「予想外に嫌なことになった」そう思わされるのが嫌で、あまり期待を膨らませたくない...。

ただ、あくまではっきりとは思い描いていなかったという話で、それなりに、ぽややんと抱いていた未来予想図はあったのだと思う。それと無理矢理比較すると、過去のある時点からのどの節目もどんな過程も、そして今も、考えていた通りにはなっていないなぁと思ったのだった。今思えば妄想逞しく、いや絶対無理やろそれは的なことを考えている時期もあったのだが、それはそれで人間味とか愛嬌があったのかもしれない。「真面目に進学してまともな仕事に就いて普通に幸せになる」...今だったら自分でも「は?何やその言い方」とか言っちゃいそうな文章だが、当時はそれが夢や目標だと胸を張って然りな時代だし環境だし私の人間としての器の程度だったのだ。心から「それが私の夢」だと思っていたかというと、それは別の話。実際はほとんど何も考えてなかったというのが正解かもしれない。「だって目標を立てるとそれを達成できたとかできなかったとか、そういうことで一喜一憂、右往左往させられるでしょう。そんなんしんどいから、ならもう最初から未来像なんか思い浮かべないほうがええの。その方が心が平穏なの。」屁理屈だが、今でも少し、その気持ちある。子供の頃の私へ、その気持ち今でもわかるで、大人の私より。

「人生予想通りに行くほうが稀」っていうのは確かにそうだと思う。でも皆そんなに耐えられるものなのね、予想が何度も裏切られることに。その結果の良し悪しは関係なく、「もしも」「もしかしたら」を考えることは、ワクワクもするけれどものすごいエネルギーを消費する。私はその耐性が、持久力が少ないんだと思う。だから元より“予想しない”“理想を追わない”ことに逃げている。リスクもないけど刺激もない選択、自分自身のことだって、賛成も反対も未だに堂々と掲げられない。

 

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It's too late? 戻れない

年齢やタイミングを引き合いに出されて「もう遅い」などと他人から言われた時、「何をー⁉」と爆発的な反骨精神ですぐにでも立ち上がれる人はいい。そういう人は「実際、もう遅い...なんてことはなかった」と後日言われたりするだろう。片や私なら、何につけても「もう遅い」と言われれば、その額面通りに受け取り、反芻し、「そっか、やっぱりそうだよね」と思ってしまう。抗う自信も気力もなく、あるのは言い訳と自己陶酔にも似た諦め。あんまり人を信じないと言っているくせに、こういう時は見ず知らずでも信じてしまうのね。

「年齢はただの数字」に食い気味に頷きながら、やっぱり長く続けているとか経験値が高いとか年の功みたいなものには尊敬の念を持つ。そして、いつかくる終わりの時までの期間をなるべく長くするためには、やはり早めにスタートを切らなければならない。もちろん短命に、大きく咲いてひと時で消えるという生き方もあるだろう。しかしながら、前述の通り経験期間をできるだけ長くとるため、また「需要と供給」の都合も相まって、「早ければ早いほど(若ければ若いほど)いい」という理論も、確かに存在するのである。そのため「平均よりor過去一遅い」「今から始めても大成することなく終わる」「タイミングを逸した」「もっと前ならば...今はもう無理だな」と言われるのは、既によくある話、これからもっと増えるであろう他人からの指摘、なのだ。

「若くして成功する」「早くに達成する」と言うのは、終わりまでを長く味わえるという点では有利だ。求められる期間が定まっているならなおさら。人生の序盤に何かを得るということは、同時に、その間に得られないもの・失うものもあるということで...しかしまぁそれはお互い様だ、早い人の経験を遅い人が体感できないように、遅い人の心情を早い人が知るのは、きっと難しい。時間を巻き戻せない、自分が遡ることも出来ない以上、“早く”を逃したら、もう今世でできることは何もないということだろうか。(あくまでこの件について、ですが。) 考えてみると、そもそも何を基準に「早い・遅い」を決めているのか、という所も、「若い」の線引き、タイミング、全てが曖昧ではあるのだ。けれどもそれに易々と振り回される。「もう遅い」の言葉にいとも簡単に傷つけられる。“自覚”があっても、納得していても、正論だと疑わなくても、どこかでほんの少しだけ「引っかかる」、けれども体面は「そうだよね...」と呟きながら前を向けなくなっている。

天邪鬼だから、「そんなことないよ」と揚々と言われると、それはそれで胡散臭く思う。自ら「いや、遅いよ」と言い改めたりする。半ば事実であるから否定もせず受け止めてしまっているのに、「遅くなんかないよ」という言い方をして、“まだ間に合うような気”にさせるのは、それはそれで罪だと思う。それで無責任な印象かどうかを決めてしまったりする。そんな偉そうなこと言える立場ではないんだけどね、すまん。

 

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隙間を満たして消す、その繰り返し

毎日(といっても本当は毎日出来てなどいないが)、一体何を書いているの?と訊かれる。う~ん何だろう(へらっ)と言いながら、日記ということにしている。実際はそれらしいことはしていないのだけども。“脳内漏洩”と言っても、その人たちにはわからないでしょう。もっとも、本当に私のやっていることに興味が湧いて訊いてきているのではない。「それじゃなくて、もっと生産性のあることをしろ」と言い換えたいに違いない。“成果”の無いことに浸ってるようで、有意義には見えないだろうし、実際“意味”があるとも思えない。「やりたいこと」も「何でも」も「自由」も便利な言葉で、即ち都合が良い、それをチラつかせては、私の目の色がどうなるかを見張っているのだ。

リアルタイムで見ていればおわかりの通り、私はとうに自分との約束を破っていて、だいぶ更新をサボっている。停滞しがちなこと、その後の対応も含めて、私の性格だなぁと思う。易々と自分を甘やかす。脱線を許す。普段のお喋りさえあっちこっち行くのも、同じことだ。淡々とこなすことが目的の時も、中断を繰り返したからって、別に反省していない。罪かしら。でも結果だから仕方ないじゃない?全てを放り出さないだけまだマシ、と 自分をかばうのも年々慣れてくる。よくないね。自覚はある。

2月は不思議とリスタートの気も高まる。過去の経験ゆえだろうか。もちろん何かと節目を勝手に見つけてきてしまうのだが、新年や年度初めや誕生日ではない、独自の始まりを感じる時期がある。それが近づくと、何かとリセットしたくなる。わりと定期的に発動する癖ではあるけど、特によく過る。“始まり”という区切りをつければ、何かが変わるのかなと、もう無意識に期待しているのかもしれない。また奇跡が起きないかと。また人生が大きく変わらないかと。しかし結局は自作自演だ。変えようとすれば変えられるし、変えなければそのまんまだ。いいかげん、“現状維持”にも“継続”にも、それなりの価値を見出さねばと思う。いつまでも「しっくりこない」と言い続けているだけではダメだと、わかっては、いる。

私はわりとテトリス脳というか、穴を埋めたくなる質なので、しばらくはまた“作業”を続けると思う。空いた日付分を何かしらの脳内の雑談で埋めて、1周年には間に合いたい気持ち。でも無理な気もするなぁ。できる限りはやる。脱線回避の環境についてはやっぱり少し考えようと思う。脳内だけじゃなくて、現実の部屋も視界も、結構とっ散らかってる気がする。視界がうるさいのは結構ネックだし、いくら過集中時周りをシャットダウンしがちとはいえ、音もそれなりに気になるものだな。と、最近父と同室で過ごすことが多くなって気付いた(※光熱費節約のため)。よく診断モノでも言われる通り、私には完全なる一人になる時間が多めに必要なのだ、やはり。

 

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