It's too late? 戻れない
年齢やタイミングを引き合いに出されて「もう遅い」などと他人から言われた時、「何をー⁉」と爆発的な反骨精神ですぐにでも立ち上がれる人はいい。そういう人は「実際、もう遅い...なんてことはなかった」と後日言われたりするだろう。片や私なら、何につけても「もう遅い」と言われれば、その額面通りに受け取り、反芻し、「そっか、やっぱりそうだよね」と思ってしまう。抗う自信も気力もなく、あるのは言い訳と自己陶酔にも似た諦め。あんまり人を信じないと言っているくせに、こういう時は見ず知らずでも信じてしまうのね。
「年齢はただの数字」に食い気味に頷きながら、やっぱり長く続けているとか経験値が高いとか年の功みたいなものには尊敬の念を持つ。そして、いつかくる終わりの時までの期間をなるべく長くするためには、やはり早めにスタートを切らなければならない。もちろん短命に、大きく咲いてひと時で消えるという生き方もあるだろう。しかしながら、前述の通り経験期間をできるだけ長くとるため、また「需要と供給」の都合も相まって、「早ければ早いほど(若ければ若いほど)いい」という理論も、確かに存在するのである。そのため「平均よりor過去一遅い」「今から始めても大成することなく終わる」「タイミングを逸した」「もっと前ならば...今はもう無理だな」と言われるのは、既によくある話、これからもっと増えるであろう他人からの指摘、なのだ。
「若くして成功する」「早くに達成する」と言うのは、終わりまでを長く味わえるという点では有利だ。求められる期間が定まっているならなおさら。人生の序盤に何かを得るということは、同時に、その間に得られないもの・失うものもあるということで...しかしまぁそれはお互い様だ、早い人の経験を遅い人が体感できないように、遅い人の心情を早い人が知るのは、きっと難しい。時間を巻き戻せない、自分が遡ることも出来ない以上、“早く”を逃したら、もう今世でできることは何もないということだろうか。(あくまでこの件について、ですが。) 考えてみると、そもそも何を基準に「早い・遅い」を決めているのか、という所も、「若い」の線引き、タイミング、全てが曖昧ではあるのだ。けれどもそれに易々と振り回される。「もう遅い」の言葉にいとも簡単に傷つけられる。“自覚”があっても、納得していても、正論だと疑わなくても、どこかでほんの少しだけ「引っかかる」、けれども体面は「そうだよね...」と呟きながら前を向けなくなっている。
天邪鬼だから、「そんなことないよ」と揚々と言われると、それはそれで胡散臭く思う。自ら「いや、遅いよ」と言い改めたりする。半ば事実であるから否定もせず受け止めてしまっているのに、「遅くなんかないよ」という言い方をして、“まだ間に合うような気”にさせるのは、それはそれで罪だと思う。それで無責任な印象かどうかを決めてしまったりする。そんな偉そうなこと言える立場ではないんだけどね、すまん。