不必要な現状説明
追いかけっこのように、このブログを書いているわけだが。記憶に残る“日常”はなんとも少ない。もう“潰し”も効かなくなってきたので、何かしらテーマでも設けて空いてる日々を埋められないか考えていた。“日記”として書くときは、他SNSから何かしらピックアップしてきて、それについてまとまらない思いをつらつら載せていたんだけど。始めた当初は息をするように呟いたり写真を撮ったりしてたけど、最近は更新頻度がめっきり落ちてしまった各種アカウント。両方とも小さなトラウマの積み重ねが、足を遠のかせている。
Twitterが最初に嫌になったのは知り合いとトラブった時のことだ。今考えても全然納得いってはいないのだが、表向き“済んだ”ことになっている。怨恨というほど重くもないが、“要らん思い出”だなと今でも思っている。文字だけでは気持ちの“一部”しか伝わらないこと、限られた文字数では満足いく会話にならないこと、内輪の結束は逞しくダサく見えたこと、たとえ恋人でも“一番信用できる人”ではないとわかったこと、“学んだこと”はいろいろあるが、それは糧でもあるしトラウマでもある。まぁ目に見えない傷が無数につく世界だ、トラブルらしいトラブルはこれっぽっちだと思えば、そう大したことないのかもね。
Instagramは一時期ストーリーにがっつりハマってたけど、今はほぼやってない。理由はわからないけど今もやりたい気持ちはあるのよ、うん。インスタ自体と距離を取ろうと思ったのは検索画面で不穏なストーリーばっかり見せられたから、かな。猫の画像だけ集めてればよかったのだけど、漫画をちょこちょこ読んでいたら、オススメが不倫だの差別だの不穏な内容ばっかりになっちゃって。いや、“他人の不幸は蜜の味”って言いますけど私求めに行ってないですやん...って思って。人間のサガか、出てくるとつい読んじゃうのもイケナイ。赤の他人でもこんなに不快なんだもん、当事者はそりゃハラワタ煮えくり返るし、吐き気するし、人間不信にもなりますわな。心理学としての勉強と思えばいいのかもしれない。私はインスタでキラキラはもう眩しくてきっといつか目が潰れるので見られません。人間観察研究に使う外ないと思いマス。
私の、極々小さい、極々狭い世界でのことしか書かない、書けないわけだから、内容が重複するのはしかたがない。文字にすることをずっと吐き出すと言ってきたけど、文字通りで、渦を巻いて滞留しているものを吐き出さないと、どんどん吸えなくなるのだ。今回のSNS経験談だって、別にアドバイスを求めてるわけじゃない。ただの結果報告である。「何かしなきゃ」と考え出すと要らぬこと思いついたりするけど、その度に“本来”の用途を思い出す。そういえば、ただの雑感だった。