こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

main in my mind

何かを好きだ、やってみたいと言うと、何故?とか何の為に?とか言われてとても困る。何故――さあ?なんでだろう。何の役に立つの?とかそれが何に成るの?とか改めて訊かれても何も答えられない。しいて言うなら、自分の気持ちがほっこりする、ぐらいだろうか。「自分が満足すればそれで十分」とも思うし、「それでは(今では)もうダメ」とも思う。

支えられているのに贅沢だが「放っておいて」と時々叫びたくなる。命令されたりはしないけれど、待ちの空気や期待の視線に包まれるとなんとも息がしづらいの。そしてそれを自意識過剰だと笑われることも。自覚があるからこそ辛い時がある。何も気づかなければ、能天気な顔でかわしていられたのに。

「体がなけりゃどうにもならない」と「体さえあればどうにでもなる」が同義なのだとしたら、「やる気さえあればなんでもできる」と「やる気がなけりゃなんにもできない」も同義だろうか。では、やる気がそもそもない場合は?「なんにもできないしどうにもならない」?私はいつも根本へ根本へ掘り返して、話をまとまらなくさせる。どんな話を吹っ掛けられても、スタートラインが違うんだもの。“同レベル”の話にはならない。

ゲームはいい相棒でなければならないと常々思う。ハマるとあっという間に時間を奪う。永遠に生きられない私たちにとって、敵ともなり得る。私はゲームが好きだけども、自分でスマホを手に入れてからこんなに生活に幅利かせられるとは思わなかった。少し前は違っていたけれど、ゲームで現実逃避する気持ち、今はよくわかる。今を生きることも、今を抜け出す術も、考えなくていいからだ。脳をゲームの世界に置き、そこで必要となる思考だけを巡らせる。「ここではないどこかへ」と常に思っている人間にとって、いつでも手に入る「どこか」なのだ。それが、決して正しいことだとは思っていない。それは画面の中でなく、現実のここにある脳で考えて、識っていることだ。

私は本当にかわいくない人間だなと思う。私が“かわいいな”と思う人間はたくさんいて、無知だとか、欠落だとか、人間らしいとか不器用だとか、そういう柔らかさを求めている。自分はひねくれていて、堅くて、回りくどくって、もし私が赤の他人でここのような発信物を見たならば、間違いなく「かわいくないなー」と思うだろう。自分で自分をそう思うことに対して暗い気持ちになるのは、“かわいい人間”になりたいということだろうか。でも今更感が半端ないね。「それが君だよ」と言われて「うん」と返事して、結局それっきりだ。

過去の記憶によく溺れるけれど、昔からの知り合いに会いたいとはあまり思わない。同窓会にも出たくないしそもそも呼ばれない。私のような途中脱落者は、当時のままの関係を保てない。群れに置いて行かれた羊なのだ。(動物占いもそんな風な謂れだった。)大人になったら懐かしむというから、懐かしみを楽しみにできない私は、まだ大人になりきれていないということかしら。皆が過去だと“振り返る”美しき思い出も、私にとっては“ただそこにある記憶”というだけかもしれない。私が辛うじて忘れずにいたいと願うことも、誰一人“共有”していない思い出かもしれない。そういう意味でも「ズレてるな」って思ってるよ。

 

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