こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

落としたことに気付くとき

せよ、と言われたこと以外しなければ、あらゆることが億劫になっていく。自分を教育することや楽しませることにも怠けて、終日、どこにも針が振れずにいる“みなぎる”ということがまるでない毎日は、平穏と引き換えに一切の刺激を失う。

「このまま外に出なければ、服なんていらないな」と一瞬よぎる。実際最低限には要るのだが。でも“お洒落”をする意欲もないし、好奇の目が怖いというより他人の迷惑にならない程度のものを用意していればいいのかな、と思ったり。変わってしまったのかな?以前は好きな色、好きなテイストがあって、自分なりに努めていたのに。人になんと言われようと、着たい服を着て、アクセサリーを選んで、己だけがしかわからないこだわりを持って、そうやって死ぬまで生きてやる、と意気込んでいたのに。今はもう与えられた自由を、ここでもまた使いこなせないでいる。それは、ファッションだけに限らず。

服を買いに行こうと出かけて、何も手に取れなかったとき。何か歌おうと思うのに、好きな曲がすぐには思いつかないとき。「なんでも奢るよ」と言われて、好物でも高価なものでも選び放題なのに、「なんでもいい」と答えてしまう。むしろ“借り”な気がして、なんだか委縮してしまう、そんなとき。どこかに大事なものを置いてきた感覚。“指針”がなくなるとこんなにも動けなくなるのかと、怖いし悲しくなる。流れに身を任せていれば、自分の意志とは関係なく、“結果”がやってくるものだけれど、それをちゃんと“自分のもの”だって思えるだろうか。なんだか“自分”が自分から離れてしまったみたいだ。

私が「いつも考えごとをしている」というと、毎日深刻に思い悩んでいると思った人が心配してくれるけれど、現実の私を見たら拍子抜けするだろう。怒るかもしれない。あまりにも能天気に見えて。けれども自分と親しくなればなるほど私は相手に言う。「深刻な人がいつも深刻な顔をしているとは限らないし、笑っていたって明日消えるかもしれない。別に脅しじゃないよ。本当によっぽどで隠しても顔に深刻さがにじみ出ちゃう人もいるだろうし。」矛盾も多面性も、自分と自分ではないもの全てをひっくるめて含んでいるから、普遍的だけど万能じゃない。嘘をつく気はさらさらないけれど、必要な人に必要な分だけ、“自分”が伝わればそれでいい。たとえ相手が呆れて見放したり、怒って攻撃してきたとしても。「明日笑う保証もないし、泣く保証もない。」

暗いことばかり、昔のことばかり語るのは、暇なのだという。確かにその通り。だけど退屈だと思っていない。だからこそやっかいなのだ。認めたくないものを排除したくなるサガ、それは常に自分に適用されている。“こんな自分”は要らないと思えば“こんな自分”を消したいと思う。でも言葉通りには上手くいかない。“どんな自分”なら現在や未来について語れるか、というと、わからない、本当に。

 

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