こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

一週間で生まれ変われない

1ヶ月に1週間ぐらい、特記するほどの不具合はない、と思える体調の日々があって、その期間にバリバリ動くべきだと思うけれど、そこだけ動いてればいいわけじゃない世界の仕組みに抵抗できぬまま、全く動かない選択を取っている。最大級のワガママである。逃げられないものを与えられたら、私はどんな顔色してても行くでしょう。極端なのだ。すごく頑張ってるか、そうじゃないか、では気が済まないのは誰か。頑張るの反対が頑張らないじゃない、通り越して無。そうやって、言い訳ばかり並べれば、自分の行動に意味を持たせられるかというと、それも確証がない。

とても疲れた日があったとする。体力的にでも、精神的にでも、何にせよ疲れたと感じている。そしたら次の日はまるで動けない。何もチャージされていないのだ。私は昔からこういう“失敗”を何度も何度も繰り返す。加減も限度もわからないまま、流れに任せていたらいつのまにか疲弊している。いつだってやりたいようにやっている、と思ってきた。自分の好きにやっているのだから、ジコチューな私は自分が疲れないようにうまくやってるはずだし、もし疲れたとしても我慢できるはず。疲労も苦痛も悲しみも、やりたいようにやってる対価だと思っていた。気付かぬうちにのめり込んで疲弊するのは、きっと自由の代償なのだ、だから“大丈夫”と。なので、そこんとこうまくやる“調整”が必要なのだが、恐らく私はそれがかなり下手だ。辛い対価を減らすには、妥協も覚えねばと人に言われた。自分の望みが100%成就とはならないが、削られる“自身”を少しは守れる。そしてその余力を持って次に活かすのだと。それがいつもどんな場面でも難しい。自分の力をさほど評価しているつもりもないのに、“疲れない程度”とか“次の日のために”というのがわかっていない。どうやっても、必然的に疲れてしまうことになる、そんな気さえする。

自己管理のできないやつだと、全体の半分以上は私の様子を見て言うだろう。最初に書いたことも、「じゃあその元気な期間とやらに目一杯がんばれる仕組みを自分で用意したらいいじゃない」ってことなんだけど、それはホントにそう思う。とても現実的でないけれども。失礼を覚悟でいうと、明確な不都合でも持っていれば、それに合わせた可能不可能を考えていけるけど、私にはそれもない。私はどう見たって、可能も片っ端から不可能とでも言いたげな、ただのワガママ人間だから。頑張ってない奴が「頑張る」だの「やる気」だの言うのは本当に説得力がないね。「せめて」と思ったのは命令によって私の心を動かすことだけども、大人になってまで、できるできない・やるやらないを他人に委ねるのも、どうなのかと考えてしまった。

 

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