うだうだのう
曜日に縛られない生活をしているが、何となく、日曜日にリセットして月曜日からまたリスタートな感覚がある。だけど、“前日の夜”という妙にハイな状態で行った決意は毎回脆い。いつまでも何かが完成しないのは、永遠といえば美しいが、私の場合は気が散漫なのと要らないところで頑固なだけだ。何の誓いも守れぬまま、また次の“その日”を迎える。忘れたように、繰り返す。ひとつも始まらない、始めないから、終わらない。
うだうだの“う”ひとつを駄弁っている間にも、時は進んでいる。無駄な時間、だろうか。ココを書いていることだって、誰にも聴かれない歌をうたうことだって、無駄に無駄を重ねている、だろうか。比べてしまうのは何も充実してそうな同世代だけではない。自分より随分と年下も、随分と年上で“謳歌”という言葉が似合う人も、苦しんだ顔しか見せない人や自分のこと“底辺”だという人でさえ、自分と比べりゃ随分とエネルギーがあるように見えるものだ。目に見えない、数値化できない、だから自分と他人を並べてみても、どうしようもない。ただ己の焦燥感を掻き立てるために目をやってみたり、停留感を否定するために焚き付くか試してみたりしている。
別に火曜日からさっそく約束を破り、水曜日からまったく予定してなかったことをやってみたって、いいのだ。でもしない。もしくはできない。できないと思っている。私は、自分の責任の下ある誓いを途中で覆しても、それが罪でもなんでもなく、新しい思い付きを行動に移したって誰も困らないとわかっていても、何にせよたぶん自分を許せない。怠惰の継続を望んだならば“ダメ人間”であることを許せず、逃げ道を選択したならば“初志貫徹”もできず移り気な自分をまた許せない。「何にも悪いことない大丈夫」と言われてもまだ「いや大丈夫じゃないことは自分でわかってるってば」と投げやりになりながら、“解決”には積極的じゃない自分に呆れている。
決断は訓練だと思う。サボってたらどんどん決めるのが遅くなってく。選ぶところまではいっても、なかなか決められない。いつまでも“迷い”の状態。本当は予感や予想もいろいろしているのに、想定外になる可能性があることも想定しているのに、決めるという指先ひとつのことが、できなくなってく。“とりあえず”がすんなり組み込めなくなった。他人に言われることも、自分でつい言っちゃうことも、自然であり得るのに、「でもさ」って思わず刃向かうような言い方になっちゃう。どうしてひっかかるんだろう。“とりあえず”が認められない心理って、なんなんだろうね。“いつものアドバイス”が耳障る。まず、ひとつ。まずとひとつの間に何工程もあるように思えるよ。