無目的の好きしか
前回、結構な分量で、“私の中身”のような記事を書いてしまったので、もしやこの先書くこと尽きたんじゃ?と一瞬焦ってしまった。まぁ“私の全部”にしては全く足りなくて、記事としては無駄に長いというだけなのだが。とりあえず、テーマを与えてもらって書くということに、意義を見出せそうな気はしてきた。これからも私の一部を滲ませつつ、格好付かないミステリアスでいこうと思う。
私の“好き”は、何にも関連せず、昇華せず、役にも立たず、ただそこに想いがあるというだけの存在だ。「好きこそものの上手なれ」にも「好きを仕事に」にも変化しない、ただ私が“思っている”という所に留まる。それが悪いというわけではないが、それが良いこととも思わない。広がりを持たない“好き”は意味を求められると途端に委縮してしまう。
今までも度々書いてきた、“意味があるか”“役に立つか”みたいな議論は、“好き”を思うたび毎回突きつけられてる。「それを好きと言ったところで、思いつきをやってみたところで、何の実も生まない」それがあまりにも明確な事実で、言い訳もできない。所詮、極めるような熱意もなければ、そんな時間もない。意味を持たせない限り、実利を生まない限り、私の“好き”はその一瞬に浮いただけの存在だ。お金、仕事、特技、執着、いろいろあるが、結局最も問題になるのはやっぱり“気”、やる気・情熱・欲望の不在だ。
「無趣味と言っている人に比べたら、なんて彩豊かって思わない?」と優しい人に言われた。それは、そうだね。「好きなこと?特にない」より「好きなものは~」とあれやこれや浮かんでとりとめもなくなる方が、私には愛しく思える。そういった言葉に何度も甘やかされてしまっているが、何もないと口にすることが怖いと思っている私にとっては、無意味だと自覚があっても“好きなものこと”をすぐ言える自分には、少し安心する。
“好き”な気持ちだけじゃ生きていけないというけれど、じゃあ“活かす”って具体的にどうするか教えてほしい。そしてそれがそう簡単に教えてもらえるものじゃないこと、わかっている。「思春期みたいな悩み方だ」と言われても、そりゃ当然、私は今もあの頃の続きを生きているのだから。むしろそれを子供の頃だけで解決できるわけなくて、大人になっても迷子のままだ。私だけ?一体どれくらいの人が“ちゃんと”していて、どれくらいの人が私みたいなんだろうね。知りたいものだ。
少し先の未来に許しを乞うているようだ。返事はない。いつかのタイミングで生まれ変わったように能動的に前向きになったという知らせもない。だから今日も変わらずに、やる気のない“私”を罪の意識もなく続けている。