こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

いないいないばあ(いない)

これまでの投稿で“友達”だの“親友”だのと言ってきたが、こんな個人的な場所で取り繕ってももうしょうがないので正直に書こう。私は友達がいません。いないのだと思う、きっと、恐らく。別に希望ではないよ。昔から友達という名称に違和感を持ったまま、この年になっても理解が進まないのは、実体験がないからだと考える。「あの子は友達の...」とかではなく、彼は彼だし、彼女は彼女だ、〇〇という名前の人間である、とひとりひとりのことを思って指している。同級生だとか、仕事仲間だとか、ある意味明確なグループわけがされていても、それを友達と呼ぶには違和感ありすぎる...そんな風にばっか考えるから、実際“友達”と呼んでくれる人は少なく、私から“友達”と呼ぶ人は...相手のオウム返し、または私の密かな希望だったのだろう。

私の“友達”の認識が誤っているのかもしれない。友達は相互関係だと考える。質量は違えど、お互い似たような感覚で相手を見ている、見合っているのが友達。私は自分の気持ちにも自信がないから、見合っているかどうかが謎。というか、私の一方的な感覚・感情で相手を認識しているに過ぎないのではと思う。だから基本的に〇〇は〇〇、「私にとっての何?」と訊かれても、「私にとっての〇〇は私が好意的に思っている(敵意を持っていない)人間・〇〇」と答えるだけ、それ以外の何者でもない、本来は。親しみを込めて、これまで“友達”や“親友”を遣っていたけれど、私が一方的に友好の気持ちを持っているだけで、“関係の名前”ではないのかもしれない、って最近気がついたのだ。だとすると、“友達って関係性の人”は私の身近にいないってことかも、そう思う方がなんだかしっくりきてしまった。あぁ!なるほど!(やっぱり)私友達いないんだってすっきりした。

自分だけで自分に証明できるのは、自分がどう思っているか、どう望んでいるかだけだ。私が誰かを“友達”と呼ぶ気になったとしても、それは誤りかもしれない。相手が同様に、しかも同時期に、思ってくれているかは、私ひとりでは証明できないのだから。(そして今現在は“いない”という証明を薄ら見せつけられている気もしてくる。)そもそも定義も境界線も曖昧な“親友と友達”だって、便宜上ソレを遣っていることは以前も書いた。本当はカテゴライズせず、個人個人に異なる感情を持っていると。グループわけしていないのだからグループそのものが存在していないというのは、筋は通っているかな。

書きながら思ったが、これは自分に「諦めよ」と合図を出しているのかも。私は行動についてはいろいろと諦めが早い方だと思うけど、人間関係や言葉、感情に関しては結構執着を見せたりする。極端だからかな。「まいっか~」と言える楽観性と「まだなんとかなる」と思い込む粘着性が交互にある。自分の感情の行く末を、まだ認めたくない気持ちがあるのかもしれない。それでも、コレを明確な事実と決めることで、自発的に身辺をすっきりさせたと思いたいのかも。いやぁ、我ながら面倒なことやってるね。でも少し、苦しいんだと思う。現実を受け止めるのは、いつも苦しいね。

(余談を次に投稿します。ひとり回顧なのでお暇があれば。)

 

友達いない 親友いない 友達の定義 一方的な気持ちAmazonで検索