こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

was born

この夏、私はまたひとつ年をとったわけだが、別におめでとうと言われるようなことはないな、と例年通り思った。いや、「おめでとう」と言ってもらえて、プレゼントも貰えて、嬉しいよ、ありがたい、お世話かけますって感じ。親友は今年も忘れていて、己への祝辞に感謝しているだけマシ。もうそりゃあ親友じゃないでしょ、と言われても別に正直どっちでもいいの肩書きなんて。あいつはあいつでそういう奴。子供の頃はもっと純粋に喜んでいたはずなのに、いつからだろう、反射的なありがとうを返すだけで、全く浮かれなくなったのは...。

私に「生きてこれておめでとう」と言ってくれるのはいいけど実感ないから、できれば父母に言ってあげてって思う。生まれることに消極的も積極的もないから、「間違ってない」は親のために言ってほしい言葉だ。私はどうあれ、父さん母さんが嬉しいんならいいんじゃない?人生の正解なら喜ぶものじゃない?私はどうあれ。

去年のことももう思い出せないんだけど、たぶん似たようなものだったんじゃないかな。また1年、無駄に“自分”を生かしてしまった。私が灰になるまでに出される二酸化炭素を除いても地球温暖化は止まらないけど、だからこそその程度なんだから、消えるも居座るも隅っこの自由。私は自由に生きられて、そこに感謝はしなければならないね。

母がたまに言う「もうそんな大人」と「まだまだ未熟者」が交錯して矛盾してないから苦しい。バリバリ活躍していたアスリートが引退して、第二の人生を探し始めるなら、皆喜んで協力するし応援するものだけれど、“何もしてこなかった”者は入門も引退もなく、第二なんてない、第一の人生すら始まってないようで、皆を唖然とさせてしまう。それでも様々なリミットが近づいてくるんだよ。唐突に打ち切られるかもしれない。自然の流れで大人になり、自分の都合で大人にならない。ずるさを後悔せよ、と言っているのかしらね。

「生まれてきたことを感謝」と聞くたび、「まずは感謝」にならない人間はどうすればいいの?と思ってた。感謝には前置きがあるでしょう。産んでくれたことに、育ててもらったことに、死なずに守ってもらったことに、愛されるようにしてくれたことに。口にしようとすると、全て親の手柄のように思うし、それでいいと思う。私はやっぱり無だから。前置きがあって、それでも自動的に喜びに溢れたりしない。自分、途中で死なんでよかったな、今日まで居られてよかったな、ってのはきっと死ぬ直前には思うかもしれないよね、今はほぼわからない。今年誕生日を迎えられなかった人が志半ばならさぞ悔しかろう、と不憫に思いながら、当人の気持ちに恐らく同調できない自分に気付いて、とても悲しくなった。が、しかたない、それが私だー。

 

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