こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

愛(め)での真骨頂とは

今私の左手を枕にして猫が寝ている。可愛くて仕方がないこの“お姉さま”は我が子のようで、主のようで。この気持ちはひとつの儚き命に対する情でもある。人間ではないこの子の方が、よほど自分に近しい気がしている。私がブチ切れて大泣きした時も、こちらもまれにみる大声で鳴いて止めに入る優しい子である。

多頭飼育崩壊や動物虐待のニュースを見ると、本当に悲嘆するし腹立たしい。人間同士なら、たとえ愛がなくなっても、理性でもって話し合える。それが通用しない生命の脅かしなど論外だ。愛が永遠でなかったとしても、対等に同じ土俵の上で闘えない相手(動物)を一方的に攻撃してはならないはずだ。虐げるのは、対象がか弱いからではない、犯人自身が、弱いんだと思う。(犯罪行為になってるから犯人と呼ぶけれども。)もしも好きの延長線上に悲劇が起こったとして、それでも「もう一度愛でたい、だって好きだから」と言っている人には、可哀相だと感じつつ認識が甘さに苛立つ。「本当に好きなんです」といいながら、汚れて傷ついて震えている動物を無視できるなんて不思議。命に愛は必要だけれど、愛だけでは“共に”生きられない。愛に紐づく責任は必ず持たなければ、そうでしょう?と、どんなに涙している“失格者”にも問いたい。それらとは別に、嗜虐的な人には他のアプローチが必要なんだろうなと思う。好き嫌いは個人の自由だ。けれどもそれは自分でも操作しきれない感情の話で、行動や権利の行使は最大限己でコントロールするものだろう。「やめて!」と叫ぶ以外の方法を私はまだよく知らない。

「私はそういう嗜虐的な人の気持ちは全く理解できません」と言って、知ってしまった問題を放棄できたらどんなに楽だろう。そうなりゃ完全にディストピアだけども。実は全くわからないでもないのだ。もちろん実行はしないし、もし私が狂って動物虐待をしていたら、迷わず殺してほしい。何かをいじめたい、からかいたい、そういう気持ちが全くない人生だと言ったら嘘になる。動物だって、何がなんでも可愛いと思っているけれど、反射的に蚊を叩くし、小さい生き物を握り潰すビジョンが本当にたまに浮かぶこともある。(大概は精神が弱っている時だ。)私の中に、確かな衝動ではないけれど、ぼんやりした妄想がある、無意識の残酷さがあるということだ。だからこそ、知らなかったことにできない。我が家の猫たちを前にして、考える。幸せかどうか、言葉で確認のしようもない相手だからこそ、こっちの頭を使って考えることで、真の相互関係が生まれる気がする。嗜虐でしか埋まらない心なんて、本当はないって信じたいな。

近頃、以前起こったうさぎの飼育崩壊問題が再燃しているようで、それも気になっている。保護団体さんも注視しているようだし、再びトラブルにならないことを願うだけだけど、“繰り返し”はほんとにやめてほしい。私含めうちの兄弟は、子供の頃ずっと好きな動物はうさぎ派だったはずだ。それなのに、猫を飼いだしてから、すっかり猫派になってしまった。(ちなみに父は本来犬派らしいが一番甲斐甲斐しく世話をしている。)とはいえやっぱりあらゆるもふもふが好きだけどねー。もふもふしてないものもね!虫とか蛇とか海の生き物とか、わりとジャンル広いよ。

 

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