群れない羊
自分と同じような人に会ってみたいな。でも本当に自分と同じような人だったら、表に出てこないし話題に取り上げられることもないだろうから、不可能だろうな。人は群れで生きるというけれど、自分が心地よく居られる群れは少ない。その貴重な群れの中でもひとたび疎外感を感じたら、もう二度と戻ってこれないのだ。怖くて。例え類似の集まりでも、やっぱり個人は個人で、逸れる時は一瞬だ。
自分をイメージして掛けられる言葉に、いちいち反応していたら、本当はどれが自分なのかわからなくなった。天才扱いする人、なんでもやればできると言う人、極々平凡な人間だと言う人、か弱い女子扱いする人、自我が強い奴という人、逆に自我がないのかという人、真面目だと言う人、ちゃらんぽらんだと言う人、ここまでバラバラだと、むしろ私という人は本当にひとりだけなんだろうかと疑問も出てくる。いや、ひとりなんだけど。ドッペルゲンガーには会ったことないしさ。もしくは、私ってそんなに人によって見せる顔が違うのだろうかとも思う。
ある意味、今は自分の思う自分らしさを体現した生活をしていると思うのだけど、それだと“社会では通用しない”らしい。今の姿とは違う私をイメージして、みんな説得を試みる。規則正しく生活して、バリバリ仕事をする私、脇目も振らず好きなものに熱中し突き詰めていく私、所謂幸せな結婚をして母になり同世代とママ友になる私。いやいや幻想が過ぎるでしょ。今の姿が、あまりにも無為で、無意味で、無駄で、失うものばかりで、得るものと言ったら蓄え続けている脂肪と加齢、マイナス要素しか見えなくて、さぞ心配なんだろうけど。
世の中もっとひどい人はいるとか言って、比べられるわけないじゃない。その人にはその人の、私には私の、絶望がある。その人にもし神様がついていても、私は同じものに祈れない。苦しみも癒しも、同じものを持たないのだから。なんとか奮起させようとして、上を向け、下を向け、前を見ろ、足元を見ろと、忙しすぎて疲れたよ。そんな風に言うと、これだけ怠惰な生活しているのに、何が疲れただ馬鹿者、と言われるんだろうな。
「私、群れで生きたい」と言っても、「ではあなたは何をしてどうやって群れに“貢献”できるの?」と言われると何も言えない。群れを維持するために“協力”を求められる時、私は動き出せない自分の熱の無さを知る。ああ、無償で群れを求めること自体甘えだな、何かの為に誰かの為にを覚えない限り、居場所はない。そう思って群れの少し後ろで離れて立っている。「どうしたら貢献できるんだろう」と考えている人と「どうしたら貢献したいと思えるんだろう」と考える私。次元が違うよね、その熱さにまるで追いつけない。
いかにして生きていくかを考えられるの、実はレベル高いって知ってた?どうしたら生きたいと思えるか、ほとんどの人がオートマチックに越えていく初期の段階。もうそこで躓いてるの。困ったもんだよね。