あぶくとしずく

勝手な言い分。

嫌嫌期

「いいとこ探しが上手ねぇ」と育てられた私も、大人になれば批判ばかり口にする。もちろん、好きなこと、気に入ったもの、いいところを発見することで、自分の気持ちを穏やかにする気はあるのだけれど。人間にも物事にも多面性があって、なるべく意識して捉えていたいけど、どうしても視野が狭まるときがある。許せない気持ちになって、批判して、そこから先何かの行動に出るわけじゃないんだけど、それが積み重なると、新しい視点や感覚に気づくまでに、結構腰が重い、瞼が重い。好き嫌いは個人の自由だし、気に入らないからといって消滅を望んでいるわけではない。“嫌”と思う対象は、“好”の対象よりもより鮮烈な記憶で、刺激的な色で視界に飛び込んでくる。“いいところ”をかき消すほどの“不快”が、私の口を滑らそうとしてくる。気に食わないものを全て取り除いて、最後に残るものがお気に入りになればいいけど、そんな選別は時間がかかるし不可能に近いし、望む結果になりそうもない。

無知であること自体は悪くないけど、無知をひけらかすのは苦手だ。知ったかぶりのドヤ顔も、無知をキャラクターにすることも、冗談だってわかってもまっすぐ見て笑えない。以前書いたテレビ番組の話とも似ているが、「わかんなーい」(かわいい)は、“わからないということ自体”がかわいいのではなくて、“わからないと言っている人のその仕草や態度”がかわいいということだ。無知であることはただの現象であり、良いとか悪いとかかわいいとかかわいくないとか、言えることではないと思っている。無知をイジる人、それを愛だと認識する人、その人たちの関係性にとやかく言うつもりはない。無知やミスを公にして堂々としている人、それを見て勝手に恥ずかしくなっている私の個人的感想だ。

人生限られた時間ならば、快適に過ごす割合が多い方が良くない?苦労は買ってでもしろというけれど、努力や問題解消の労力はそれとして、不快に対する我慢や沈黙は、買ってでもする苦労とは別物だと思う。そういう考えのもと、私はあれが嫌だこういうとこが苦手だと表明するし、それによって世界が動く必要はない。価値観とか知識とか思考力ではなく、ただの“好み”だから、似た考えの人もいるだろうし、共感できない人がいても何ら問題はないのだ。

否定に口を汚してばっかりなのもあまりよろしくはないが、拒否や批判が全くできなくなるのも考えものである。基本的にALL OKの精神でいたい。しかし倫理的や常識的に、または私の感覚や好みにおいて、受け入れがたい・認めがたい・許しがたいことは確かに在って、ないことにはできないのだ。いくら「みんないい」と言っていても、一度生まれたモヤっとした瞬間、気づいてしまったらなかなか簡単には消えない。不快感に疑念や苛立ちが交錯して、たまらなくなって口から溢れ出ることもある。誰彼構わずケチをつけたいわけじゃない。拒否は自分を守るためかもしれないし、批判は自戒かもしれない。ネガティブを意識するのは、自分の穏やかさや平安さの可動範囲を確認したいだけなんだ。

あれも嫌これも嫌と扉を締めて、出入口を塞いでいく感覚に、最近少し困ったなと思っている。拒否したって、回避したって、別に罪の意識はないのだけれど。生きやすさを望む権利はあるとしても、“阻むもの”と決めつけて否定や批判に追われるのはどうだろう。“自分は不快感や苦手なものばかりに囲まれている”と八方塞がりを“演出”し続けていたら、何も“いいもの”が見当たらなくなるのではと感じる。学習してしまったから、全く他を気にしないとか批判的な気持ちを目覚めさせないとかは無理だけど、もう少しときめき方を思い出したい。

 

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