こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

もうそろそろっていつのこと

私の今言っていることは、もう少し若かったら、子供だったら、まだ「大丈夫」って言われてたかな。もう、のんびり安心している場合ではないから、「ねぇもうそろそろ...」では済まなくなっているから、現実的に大丈夫ではなくなってきているから、言ってはもらえないだろう。今でも「ゆっくり」と声かけてくれる人はいるけど、それは単なる“甘やかし”だから。現状を、休憩とか充電とか慰労とか言われても、「何と何の間の休憩?」「電池切れして止まったんじゃないのに充電なんてできるの?」「癒されて、英気を養って...ってこれまで何も頑張ってないし、これから何をする予定もないのに?」とツッコミどころ満載で、“合致”が見られなくて思わず笑っちゃう。この時間は、端的に言えば無駄だよ。無価値ではないのかもしれないけど、無意味は一理あると思う。

もし私が天才的な能力や技術を内に秘めていたとしても、表面的に何も成し得ない。それを引き出すやる気がないから。私にはやる気を出すという才能が無いということだろうか。そもそもそんな溢れ出る秘めたるものなど持ち合わせていない。顕現しない潜在的な“何か”の話をしても、存在をわかっていないのだったら現状無いに等しい。

いつだって、のんびりだと見られている。普段の動きも、決断や行動力も、思いつきも。人より早く“子供社会”から抜け出したけど、“大人社会”にも入れずにいたから、いつの間にか同世代はちゃんと大人になっていて、私はその“仲間”にはなり損ねた。だから実質、私は“遅れて”いて、“子供のまま”で、身体は衰えるくせに頭は未だ自分を“大人”として扱えない。みんなが学生時代に持つような夢とか目標を、当時思いつかなかったから“適性”から適当に言っていた。恥ずかしさはなかったけれど、“何もない”だと先に進ませてもらえないから、それにいつかは本当にそう思うかもしれないから、それっぽいことを表明していた。そこから努力し続けていたら素晴らしいけれど、既に怠惰は目覚めていたので、流れていくものをただ眺めることしかしなかった。私が何かを思いつくとき、それは既に実行して達成していなければならないタイミングだ。いつだって「もう今じゃない」。中学生に上がってから「小五のときあの場所で○○したかったな」と思ってももう“違う”。○○はいつでも始められることだとしても、タイミング・場所・内容、全てが揃った上での願望なのだ。今日は今日、明日はまた違う私、次はない、厳密すぎる自己判定に、子供の頃から怠惰と疲労を繰り返していた気がする。諦める癖の悪用だとも思う。

私が何かを発信するとして、“10年前の私から”だったら周りに受け入れられたかもしれない。今は何をやっても「いい歳して...」って言われるような気がする。自意識過剰かな?でも自分で勝手に囚われているのはわかる。「きっと今じゃないんだろうな...」という自覚。「もっと早く言いなさいよ」「過去のあのタイミングでするべきだった」とかまた言われるんだろうな、という怯え。それでも、仕方がないとして、多くを見ないフリしている。このだらだら文章だって、SNSだって、勉強だって、仕事やライフプランだって、周りの人や普通の人がもう通り過ぎて来た時間や経験だとしても、私に“降りた”のは、どうせ今だったのだから。

 

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