誰でもなければ
また現るリセット癖、ちらちらしている。結局「為に」がしっかりしていないから何事も継続が難しい。「それを言っちゃあおしめぇよ」と言われてばかり。治らないねぇ。あれやこれやと辞めたくなる癖は、日常の些細とも限らない。SNS、フォローしたきっかけとか思い出せなくて悉く解除したくなったり、登録自体をなかったことにしたくなったり。会社を辞めて、働くを辞めて、遊ぶを限ったり、放置したりして、一体何をしているのか、継続しているのか、わからなくなっちゃった。名前を変えても、ちっとも変身できないし、一度決めたことを誰にも告げずに辞めても、何ら問題は起こらない。その先に何も望(臨)めないのに、定期的に沸き起こるこの衝動を、見えなかったフリをして抑えている。
いっそ、誰でもなければいいのにな。私だって私を、過去からの連なりとして捉えていて、予想できる範囲で“続き”を描き出そうとしている。家族から見れば、血の繋がった人間、同じ釜の飯を食う人間として、大きな意味があるんだろうし、当然のように愛情も情も期待してある。出会いは様々、私を友だちと思ってくれる人がいるならば、それはその人の中でやはり私が存在してしまっていて、抹消されない限りは私という像は変わらずそこにある。恋人は、私を選んだのだという。選ばれたらしい私はこの私に違いないが、そんな奇跡的な事実を前にしても、私を冠した自分を名乗るのに抵抗がある。自身以外、誰にもなれないのだから、と告げられたときのショックは一瞬ではなく、もうずぅーっと続いているはずだ。
人と会話しなければ、だんだんと言葉を忘れていく気がする。どんなに自分に話しかけても自分の持っている言葉だけで返してくる。だからいつまでたっても、話題も書いている内容も、ループするんだ。もう既に会話に疲れているところもある。だらだら続く(自分語り)のも鬱陶しいし。面白みを感じなくなれば、続ける意識ももたない。言葉を尽くしたとか心を込めたとか、がんばった後心が折れた経験を忘れられないうちは、“無駄”とすぐ思ってしまう癖は抜けない。予想以上に、重要な(だと思っていた)人ほど会話が通じなかったから。
急激に高ぶれば、冷めるのも一瞬だから。集中したその熱心さも思い出せず、これなんだっけを通り過ぎて急降下。“それからとこれまで”をごそっと失うくらい絶望するの。「やめたいな、切りたいな、消えたいな」そればっかり。それでも、微かな喜びを頼りに思い出すの。「希望を持って始まったのではなかったの?何度もやり直してちゃあスタートラインもすり減っちゃうよ。」なれやしないもの、できやしないことを望むの。全て棄てたいとか、もう1回完全な0からやり直したいとか。「人生いつからでもやり直せるとは言っても、0はさすがに無理、だよ...」
ころころ皮を着変えても、それでまだ続けられるなら、いいんじゃないとも思う。姿形を変えたくて、名前を変えたくて、持っているものを変えたくて、別の何かになりたいまま、後半戦を生きてきた。世間では前半戦と呼ばれても。「むしろアディショナルタイムだよ」と半笑いしながら。ガワが変わっても声が変わっても君は君だよ、なんてロマンティック、今はいらないわ。すん。