誰にも実らない話
私はたくさん喋るけれど、実のあることだとは思っていない。政治とか世間とか倫理とか、好きだから首を突っ込むけど詳しいわけではないし専門家でもない。ピアノの練習をしているし、いくつか他の楽器も弾けるし、歌が好きだからカラオケも行くけど、どれが得意ということもないし、自慢できる成績も残していない。歌詞を書いたり、塗り絵をしたり、ここみたいにブログを綴ったり、長年してきているけれど、どれも他者に何の影響も与えないものだし、自己にも何か“いい”のか、よくわからない。
ないない尽くしを人に語って、別に同情してほしいわけじゃない。「どれも意味なんてないよ」と諭されても、そんなことはわかっているし、それを嘆いてもいないのに、どうして私が“意味を求めた結果玉砕した”ていで説いてくるの、と疑問だ。向上心?反骨心?え、なんて?という精神で生きてきたもんだから、壁を紹介されてもすぐには、越えるとかぶち破るとかに思い着かない。
元々できないことも多いが、だんだんと増えつつあるできなくなったこと。前はできていたのにみたいな自信すらない。その“前”すら幻想かもしれない。誰かと幸せになるためには、まず自分が頑張らねばと、影響を与える側にならねばと、無意識に奮起する心。真面目に考えることが、友達や家族やひいては世間にとって“よいこと”だと、信じて疑わなかった日々。”私はここの住人なんだ”“この世界のメンバーなんだ”と喜び、手放したくないと願った居場所。今はその思考さえ、本当にあったのかなと考える。そういう風に信じたり願ったりする心が、果たして本物だったのかな、と自分の記憶ながら不確定で不安定。
幸せな日々、有意義な時間は確かにたくさんあったのだろう。自身の深層まで潜らずに、他者と繋がりながら、無邪気に懸命に、もがいていたんだろう。しかし、私の辿ってきた道なのに、まるで他人事のようだ。自分の考えてきたこと、致してきたことと同じようには、もうできる気がしない。誰かのためにがんばることも、文字通り必死に執着することも。それがなんだか哀しいな。道中、ぽろぽろと落っことしてきたみたいだ。
“こんなもん”で済ましてくれない世界も、きちんと説明はしてくれない。どうにかしても、どうもしなくても、何も変わらないのに、どうして困るって言われるんだろう。一日一日の重みを、平均寿命より若い人が感じられるのは何故。喜怒哀楽に限度いっぱい振り切っても、無意味だなと呟くと、しっくりくるのは何故。私が人に、どうしても君じゃなきゃと言えないのは、私自身が、君じゃなきゃを受け取れないから。仮に私がいないのを、想像できるでしょ?だからありえなくはないでしょうってね。サイコパスなんかじゃないよ。ただ疑問が尽きないだけだよ。
明日明確な何しようが無い日々が続いている。おかしいんだよね。間違っているんだよね。私もそう思う。けれどもクイズのように、この不正解を糧に次は正解をとも、この不正解は捨ててもう一度とも、ならないんだよどういうわけか。愛や人情やお金で、私のどこの何が揺らぐのか知れない。