近況のような回顧のような
純粋にときめけない。これは何かの悪化かしら。顔を見た人数、言葉を交わした人数、明らかに少ないから脳が鈍化しているのかしら。見たくて見ている画も、視線があっちこっち行く気がして集中できないの。音楽が好きなのに、心地よさを求めて音を選んでいるのに、猛烈に五月蝿いって感じるの急に。気づかない所で、何かが溶け出して失われていくようで少々辛いな。
あれもいいなこれもいいなと呟いて、周りにも賛同されて、手も足も頭もあるのに、意識が動かないから何も始まらない。順番入れ替えて、まずは手を動かしてみたら変わるかもよって言われて、やっているのが今まさにコレ。珍しい話題なんてないけど、文才も説得力もないけど、とりあえず書く(打つ)、そして続けるを、自分の意志で始めた。特に何もお披露目するものは発生していないけれど、「何もしてないわけじゃない」とだけ、こっそり、言えるようにはなった。それでも少しずつ、ボロが出そうになってるね。し慣れるまでには、まだまだ。私は、できる方の樹懶じゃない。
あのね、自分自身と他人に対してと関係なく、「もうやめたい」って言っていたら「そう。じゃあやめちゃえば?」って返しちゃうの。それは残酷で簡潔。「そうは言っても...」って言い訳の言葉を選ぶ苛立ちもよくわかる。私も同じように思うから。背景とか環境とかいろいろ考慮しなよってツッコミも予測済みだけど、反射的にそう思って言っちゃう。だってそれがお望みなんでしょう?自分の望みを他の人が実行できないでしょう?自分のその“無意識に追い込む姿勢”にうんざりくる。そういう自分と、人並みに言い訳する自分、ずっと問答を続けながら生きてきた。「いきたくないな」「じゃあやめちゃえばいいじゃん」「でも...」やり方は自分でも他人でも同じ。というよりか、自分自身が他人と同じ、たくさんいる他人の中の一人だ。ばっさり潔い自分も、「いやでもさぁ」と割って入る自分も、各々席についていて、絶えずやりとりをしている。うだうだ言う自分も、うだうだ言う他人も、振り返ってみれば、ほぼ同じ。それってなんだか他人を軽んじている?それとも自他ともに攻撃対象なのかしら。何にせよやっぱり、嫌気がさす。
ちっとも優しくないのに「優しいね」って言われると最初は苦笑い、そして何故だかだんだん腹が立ってくる。優しいって言葉の浪費にそんなに立ち会ってきたのかな。本来良い言葉なのに、自分に届くときには色が変わってしまっているように感じる。子どもの頃から、好きな人のタイプに「優しくて明るい人」って挙げるのは、なんか信用ならん感じがして(言ってた友達よすまぬ)、優しいって結局どういう状況?とか言い出す面倒な子だったから。自分に向けられたポジティブが、どの様子の何を表しているのか、毎度様々な言葉で困惑してしまう。“優しい”はその代表って感じ。大人になって、その様々が両立することがあるのを知っている。それでも、その内のひとつにつっかかっては「それ何について言った言葉?どうして?」と追うのをやめられない。面倒くさい人間だと思う?それで傷つかないけど。そう同じ言葉ばかりで一方的に評されることも私は面倒くさいって思っているよ。傷つけるつもりないけど。誰とも喧嘩したくありません。