こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

退屈、妥協、大概

今の生活は、何の刺激もない代わりに、不穏に苛まれることもない。人の中にいるといつも落ち着かないし、自由を持て余しつつ持たざる者の私は、自分の手の中に何も見えない。手放すまでは不安でも、手放してしまえば案外楽になって、もう一度手に入れられるのかどうか、今度はまた新しい不安が始まる。変わらぬ日々に「退屈?」と問われても、私からは「いいえ」しか出ない。だって年々足りないと思っているくらいだもの。お金も体力も失う一方だけども、時間だけはたっぷりあるはずなのに“足りない”。「今日もまたできなかった」「間に合わなかった」って毎日思ってる。目移りしすぎる自分に呆れるし、逆にひとつのことにすごい集中できたら今回は偉いってなるはずが、完成とか達成とかがないとがっかりするし。もう少し時間があれば...という言い訳に全く確信は持てないのだけれど、少なくとも時間が余って暇と思うことはない。

やりたいことを存分にやるためにやりたくないことをこなすという生き方にあまり共感できない。嫌とか良くないと思っているとかではなく、単純によくわからないって感想なのだ。権利を行使するために義務を果たすべきってことだろうか。だとしたら、私の求める権利ってなんだろう。そしてそのための義務ってなんだろう。うまく理解できないのはなぜなのか。どうしてもやりたいことのためにやりたくないことをして時間を削られたくないのかしら。タイムリミットを意識しすぎ?そもそもやりたくないことをこなしてまでやりたいことってのが無いんじゃない?私。いつも極論に走っちゃうけど、やりたくないことのみで時間切れも虚しいし、我慢と引き換えに手に入れた怠惰はもうそれ怠惰じゃないんですよ...って思っちゃったりして。過程や経験に価値があるってのを覆すようで言葉選びが難しいね。でも私の考えてること、定まっていないようで薄ら方向は見えてるような気もする。

私は中身が稚拙なのだろうか。卓越している人は、ちゃんと大人になっている人は、こんなこと考えて悩まないのかな。たらたら長いだけの思考に対して、時間の無駄と何度言われたことか。自分でもそう思う。もう少し簡潔に、せめて人に話せるように纏めれば、空いた時間に他のことできるじゃない?なんて、効率重視の社会。それを言い出して何になる、そんな風に考えることに何の意味がある、そんなこんなを言われすぎて、私自身とそれを擁護してくれる人たちは少数派だと自認してしまった。(誤認だとしても、大した問題ではない多数) 思わない、考えないってできるの?つい極論に走ってしまうことも、勢いがつきすぎて空回りすることも、成長すれば変わるの?いつまでも巡っている思考を止めて、違う方向へ導かれたら、それは本当に私の思考の行方と言えるのかどうか。

前例がないと不安になるけれど、自分の前例はない以上、突き詰めるとこれは一生もんだ。いつまでも不安だし、いつまでも迷子。(あぁその動揺に耐えられそうにないから、早く終わりたいって言ってきてるんだった。)元よりない身体の機敏さは、加齢とともに失われるし、心ばっかり忙しくて、時間がない、逃げ場もないってソワソワしてる。この器以外に移れないんだから、このままどうにか使い切らねばならないのね、私を。

 

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