こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

LOOPゆるして

一番自分らしくいられるのは誰もいない時間だったかもしれない。通常のテンションは低いのに、稀に衝動的に上がってしまうのを上手く制御できないから、そういう時に誰かと一緒に居たくなかった。明朗であっても快活ではない、お喋りなのにおとなしそう、よくわからない評価をもらっていた。

居心地の良い場所は若さあっての在留許可。それ以外の付加価値も、ひとつでも失えばすぐ“いなくていい”って言われてしまう。そうして自分が選んだ結末も結びきれずに、免罪符も何もなく、顧みて顧みて苦しくなっている。私はとても好きだったけれど、好きだけじゃだめなんだって。ここではないどこかへ、って、他人に言われるほど、切ない。老いて、衰え死する恐怖より、老いて、求められぬ恐怖のほうが大きい。いずれ消えることよりも、居場所が揺れ、周囲が移り変わることのほうが、哀しい。

「愛さないと愛されない」だとしたらもう何もかもゼロ。スタートラインにすら立っていない。「愛されないと愛せない」そんな気がしてるから。だけどもそれすら一歩進んだ先の話だ。仮に様々思われているとして、私はなかなか承知しないから。適度に心酔はするくせに、信じにくいことの弊害。相手自身の自由を望めば、距離は自然に遠くなると思ってしまっている。相手が望んで近づいているとしても、それは(相手自身の)自由ではないと、突っぱねてしまう。勝手に、私の自由を奪われている気になって何様のつもり、である。能動的にいく前の、何段階も前の状態で、一定の距離を保って、それでも何か変化があると思って見つめている。いつまでも当事者意識が生まれないのは、そうやって観察者のつもりでいるからかもしれない。誰かが、何かが、仕掛けてくるのを、一体いつまで待つのか。私は。

今起こっている事象が、心の状態が、何の糧にもならない予感がしている。現在が、10年前の私の経験だったらよかったのかもしれない。少し前なら、まだ間に合ったと思えるかしら。10年前なら、今からが本番と言えたかしら。通ってきた全ての過去が“経験値”だと胸を張る気にはまだなれない。長年、然して変わらぬ思考形態だとしたら、ここで渦巻いているものについて、まだ全然傷が浅い頃の私に考えていてほしかったな。まだ多少“ぞっこん”を示せる状態の私に、いろんな選択や決断をしてみてほしかった。まぁ長年変わらぬ、は“怠惰”もそうであるから、結局何も実らないで今、となるんだろうな。

少年の心を持った大人、は今や揶揄して使われることもあるが、本来の純粋な意味は持ち続けてほしいなと思う。とはいえ、自分に対してそう言われると、そりゃあ皮肉だなと受け取ってしまうことがほとんどである。趣味嗜好が幼いだとか、興味の方向性が若いだとか、精神がピュアだとかまっさらだとか、評価とは上にも下にも向くものだし、褒め言葉だと前置きされたものはともかく、大概は“次いでダメ出し”だろうな、と思っている。いつまでも子供、を許されるのは、それなりに大人 の部分をほんの少しでも表明できている人である。加えてそれを社会に納得させている事実、も必要だ。ああ、やっぱりここでも“持つ・持たざる”の話に舞い戻ってしまったか。ループでごめん。

 

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