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自問自答では堂々巡りでキリがないし、自己啓発本ではなるほどを放置するだけ、誰かに相談しようにも話が通じ合う予感がないし、スピリチュアルは直接打破にはならない。私のすべきは行動なんだろうが、方向性が見当たらなければ同じ位置での足踏みでしょう、現状然して変わりない。
お金が無いと進まない話が多いなぁと、思うなら働くのが順序なんだろうけど、それより何よりやる気が出ないから、やる気は覇気、生気だとすれば、天秤にかけて生はそんなにガッツリは傾かない。今は恵まれてるから、人間生活はできているけど、余裕がないとできないことを、まぁたぶんできないかな...と思う程度の余裕のなさだから、貧乏じゃないのはよかったけど、貧乏じゃなくてもやだなぁコレ、と思ってること、数えてみたら意外とある。
自分の考えていることが、独自の特殊なこととは思わないんだ。世界中のどこかには似たようなことを考えている人またはコミュニティがあるはず。で、その人たちは一体どうしているんだろう。これをひとまず“悩み”として、どこかの誰かに打ち明けるとしても、悩んでるとは受け取られないかもしれない。いや、正直、自分でも悩んでるってわけじゃないんだけど。困ってるっていっても実害的な何かがあるわけでもないし。考えてる、とか単にそう思うってのがより正確に近いと思うんだけどね。
昔、生理痛でツライときにさ、風邪とか見た目でわかる怪我とかして保健室に行ってる人が羨ましいと思ったことあるんだ。様々な症状で前中後しんどかったけど、あまり理解してもらえてない感じがしてて(まぁ時代だよね時代)、診断名がついたり誰が見ても痛いと判断されるの(当人はもちろんかわいそうだけど)いいなぁと思ってた。そういう感覚に、今のモヤモヤは似てると思う。適切に診断されて結果がわかったり、現状を客観的に判断できたり、それは悩み事困り事だよ!と断定してもらえるの、すぐに解決方法が見つからなくても、その一喜は重要だと思う。
不登校もひきこもりも、みんな明確な理由があるんだと思っていた。規模や深刻度は個人差あるけど、そうならざるを得ない理由があっての結果なんだろうなと。そういう報道のされ方もあるし、私自身がそう感じる瞬間もあったし、今もある。それに当てはまらない自分は、“そういう必死の方々”と違って、ただ甘えて怠けてるんだと思った。いじめられているわけじゃなし、友達がいないわけじゃなし、心身ともにそれなりの居場所があって、恵まれた環境で。
別に私の人生だし、という強気な感情も、こういうのは社会で許されない分類なんだろうな、という怯む気持ちも、両方あって常に揺さぶられている。ねぇ、どっちにするの?どうするの?どうしたいの?どうなりたいの?と。行きたくない、やりたくない、なんていつまでも甘えてだらけてないで、早く“やりたい”をチョイスしなさいよ、と。
はっきりした理由やきっかけがなくやる気がてんでない人は、どのくらいいるのだろう。多けりゃ安心ってわけでも全然ないんだけども。生まれつきの性質として、怠惰を極めてる人ってどんなだろうな。いるのかな。地球人なら会える可能性もゼロではないかな。