こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

あれどこいった

子供の頃は、人の気持ちがよくわかる子・寄り添う子と言われていたけれど、自分ではそのことが“良い”評価にあたるとは思わなかった。「わたしのきもちをわかってくれて...」なんて、友達同士で言われることはないし。人の気持ちや感情に共感したり理解したりはするけど、自分の気持ちはよくわからないことが多かった。皆のあらゆる方面のいろいろな方向性に、できる限り万遍なく触れて、共感できる部分を拾い上げ、“一理ある”こと全部に頷いていたから、“私はどう思うか”を見失うことが度々あったと思う。

掛け値なく、私自身は本当はどう思うかを問われると、焦って「私は何もない」「どうでもいい」と言ってしまう。先に示されているどの意見にも誰の気持ちにも、価値があるし意味が分かる。と同時に、自分以外の考えを正確に理解できるわけがないと囁く私自身もいる。以前、討論会の話で少し書いたかもしれないが、対立するどちらかを選べと言われると、本当に困ってしまって、妥協を繰り返してきた。どっちの主張もわかるし、突き詰めればどうでもいい、なのにカテゴリーに属さないと話が進まない。皆の気持ちはそれぞれにわかるけど、私自身の気持ちはそこにも、ここにも、無いのだ。残念がりつつ、どうしようもなかった。世渡りを身につけて、そこで立ち止まることは減ったが、その考え方の癖は相変わらずで。優柔不断も相まって、明確なYes or No以外は、全て「どうでも」BOX行きである。思考停止ではない。BOXの中でいつまでも、見つからない“私の答”を探し続けている。もう随分と長い間、「どうでもいい」と言い続けている私に、「本当はどうでもよくないくせに」と焚き付けようと試みる自分が。

昔、褒めとして貰った評価に喜び、人の気持ちに寄り添える優しい子だったテイで書いてきたが、実際は自分優しいなんてちっとも思っていないということは、今まで書いてきた通りである。優しいフリ、気持ちがわかっているつもり、空気読めているつもり、全てにおいて、信憑性、正確性を疑っている。純粋に心が動いているのか、それとも“気持ちがわかる”私を演っているのか、どっちにしても体面“優しい”のだからいいじゃないかと言われても、本人にとっては、はっきりとした違いがあるものだ。

私は他人事に涙したりするが、それを心優しいからと位置づけられるのは苦手だ。ただの感情の揺れであり、思いやりじゃない。私自身がそうじゃないと言っているのに、そんなことない優しいよなんて言うのは、褒めたり慰めたりのつもりかもしれないが、逆に溝が深まっている気がする。感情移入や共感は、私の“思いや感想”とは、別のところで回転している。ここまで言っておいて、逆に言えば私の優しさには希少価値があると言えたら清々しいのだが、そう言い切れるほどの例は今のところ無いな。

人の気持ちがよくわかる!なんて思い上がるのもよくないが、寄り添えた結果があるならば、素直に受け取ってもいいのかなと思う。ただやっぱり、“どこにでもいるからどこにもいない自分”を意識してしまうと、思いやりがあるふりして表面だけじゃんとか、共感するふりして自分がないだけじゃんとか、ノリツッコミの嵐なんだよね。

本当は誤差程度のギャップを、大差あるように騒ぐのは、滑稽に見えるかしら。その真相って判りえないのでは?完全なる客観視で私が私でなくなればあるいは。

 

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