こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

世の中の配分

スムーズにいかないことが常、生きるとは苦しむこと、なんて、失望ばかり示されて、どうして皆平気でいられるの。その向こう側に希望があると信じて、なんて前向きになれるのは、逆境を越えようとするのは、一体どうして。世の中は善悪ちょうど半分くらいになってると思う?それとも悪がほとんどの善がちょっとで、その希少に賭けているのか。

きれいなものだけを見ていたいというわがまま。それが通らないのは、自分自身が“通らないほどの”価値なのだと、みなしたこともあった。明らかな不幸でも納得いく幸せでもない、“中途半端”を体現する私が、“きれい・きれいじゃない”の究極を求めることに、そもそも無理があるのではないかと。

才能がなくてもやりたいことをやって何一つ報われていない とか、才能はあるのにそれはやりたいことではないと言って手を出さない とか、そういう場面はもう見ていられない。息苦しくて、心がほんとに不細工だ。誰が悪いわけでもない、誰かのせいにはできない、本人が謝ることでもない。ただそこに歪みがある、傷がある、それだけだ。それだけだけども、目を閉じたくなる。

他人と比べて、あの人よりマシだと思うことも、あの人より自分の方がダメだと思うことも、どちらもあり得るけど、どちらもどこかに置いてきてしまった気持ち。どっちの方向を向いても、残酷な気がしている。時々、悪にも美しさを感じると、そういう自分にいろんな意味でのため息をつく自分がいる。

他人の情報をすぐに取り入れることができて、脳内で好き勝手にこねくり回せる現代で、比較は致し方ない罪なのか。随分と、知らぬ間に、今まで手に入らなかったものが簡単に得られるようになって、新しいおもちゃを手にした気持ちになってるのだったら、それって少し怖いよなーとも思う。知って良かったことは多いけど、知らなくてもよかったことまで知れて、それに振り回されちゃってる、自覚がある。

私は自分自身を、共感力が高いとは思えない。どっちかっていうと空気を読めないもしくは空気読む方向性を間違えてる方だから。それでも、世の中を見渡して、悲しんだり苦しそうにしている人間を見ると、どうしようもない気持ちになる。実際どうしようもないし、どうもしない。情報を得る、感情を知る機会が昔よりぐんと増えて、世の中便利になったけど、行動がないままでも感情だけがぐらぐら動かされることが多くなった。“面倒なこと”があちこちに溢れていて、それらは“だけどありがたい”とか“だけど楽しい”とか、全てがそういうわけじゃないから、内面の醜さや状況の汚さが何かと目立って見えるようになった。

世の中に清廉潔白を求めることを許して欲しいわけじゃないし期待しない。そうでなくても世界は世界、希望を口にしても、絶望を信じ込んでも、それこそ自由だ。何か欠けている方が美しい、という考え方もある。そうやっていつまでも納得のいっていない顔をしている自分を、宥める日々なのだ。いつまでも世界をちゃんと愛せずにいる。美しくてくだらなすぎて愛しい部分はあるのに。でもそれも、結局諦め半分なんだ。私ごときが愛想を尽かしても、何も変わらない。相変わらず“こういう世界”を必要とする人たちもいるから、諦め全部になったら、だったら私の方が滅びればいいと。冗談じゃなく、でもまだ夢現な感じに、思っている。

 

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