こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

とことん常識とことん非常識

こんなに多様化を叫ばれる時代になっても、ごく自然に他人から押し付けられたり、自分自身にも無意識に強要していそうなことたち。普遍的だとか、当たり前だとか、一般的だとか、普通だとか。異なるものに脅威を感じるのは、本能なのだろうか。それでも、理性をもって、絶妙なバランスで社会は保たれているのか。

一般的だと言われることを、どうして思わないの?と訊かれても困ってしまう。誰だって生きていたいと思うでしょう?とか、ある程度は常識的な大人なんだからそう思うのが当たり前でしょう?とか。「わからない。」と答えるのは確かに甘えかもしれない。もしくは恵まれすぎて鈍感、ということかも。

だけども、手にしているもの・していないもの関係なく、思う人・思わない人はそれぞれいるだろうし、今持っている常識や思考形態が、過去に完全に影響されたものだとも思わない。顧みることも参考になったりならなかったりで、今の自分の思考のルーツやどうしてそう考えるのかという構造は、まだほとんど明らかではない。

常識的で一般的であろうとすればするほど、そうでない部分が綻びに思えて気になる。人と被らない魅力が個性だとして、世の当たり前を踏襲できないとき、それが際立ってないと、“きちんと”尖ってないと、胸も張れないし一般から“抜けきらぬ”所を不安に思う。完璧主義な私が“ちゃんとした”ものを求める。しかし短気なのか注意散漫なのか、結局中途半端にやめてしまう。私の根底にあるのは怠惰だ。だから当然、“そこ”に、矛盾が生まれる。

私は世界は矛盾そのものと考えている。矛盾が好き、なのだろうし、故に離れられない。どっちも本当でどっちも違う。両極端、相反していて、また混ざり合うところの存在。すぐ白黒つけたがるのに、グレーゾーンを愛でている。はっきり分けられている気持ちよさと曖昧にぼやかされている心地よさ。潔さに美しさを覚え緩みに可愛さを感じる。どれもこれも自分自身で、どれもこれも世界だ。

なんでもあり、そうでなければ全部なし、という思考パターンが浮かぶとき、子供の頃の授業でやった討論会を思い出す。クラスでは口が立つと思われていたので、「味方にすれば勝つ」と求められた。正直、優柔不断且つ“どっちでもいい”テーマばかりだったので、熱心に呼んでくれた側に付くなど、立場の選択はわりとテキトーだった。(のちに先生に見透かされて中立である議長を任されるようになる。)褒められれば、討論会は得意だと思っていた。選択し決定し、傾倒し調査し、思案し論破する快感。求められ、彼らの望む“勝利”が得られれば、よかったよかった、とただ思っていた。選択の段階でのモヤモヤを思えば、討論会は苦手だと思った。対立構図に対する感情的違和。「どっちか」立ち位置を“選ばなければならない”プレッシャー。どっちでもいいし、どうにもできないか、どうにでもなることばかりだよ、なんて、直前までひねくれていた。

極端を求めるのは完璧主義だからか。潔癖も少し。違和感を、ズレを、見過ごせないのどうしてか。だけど、矛盾や歪やグレーを“好む”気持ちが、「一部例外あり」「だいたい真ん中」に安心したりしている。こうやって、いつも心は忙しい。二者択一はまるで対決のように燃え、よくよく見れば、どっちも欲しいしどっちもいらないんだ。ほら、ね。

 

 

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