こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

LIVE

ピアノ配信を久々に聴いた。気に入っているピアニストさんがいて、その方の弾いている指と選曲と、あと曲の繋ぎがとてもDJしていて好きなんだ。楽器に限らず、生で流れてるものが結構好きなんだと思う。(近頃は“現場で見られない”事情があるが)LIVEとしてやっている、ということが大事で、自分がその現場にいることはあまり大事ではない。コンサートや舞台はもちろん、目の前で見るのがそりゃあ一番だけども、生放送や生配信もそのまま流れるもの...たぶん不可逆性が好きなのだ。

そういう世界、もともと観客として訪ねることもそう多くはない人生だが、出る側として距離が空いてしまってもうしばらくになる。私は決して、何も上手じゃないけれど、見目麗しくも魅せられるものもないけれど、あの世界が好きだった。子供の時は確かにものすごーく恥ずかしかった。児童合唱団のときだって、私は緊張なんてしてませんよー的な態度でいたけど、実は心臓バクバクで、しかもオーディションでは盛大に間違えて、恥ずかしくって逃げたかった。その後も何かと“ステージ”に立つようなものに所属してきたけど、別に何かに優勝したわけでも、主役になったわけでもない。まわりにも応援してもらえていたけど、今に繋がる何かが実ったわけでもない。だけど、演奏が、演じることが、私は好きなんだと思う。それが生で流れている、その流れに組み込まれていることで興奮と安心を同時に得ていた気がする。そして、そんな私よりもだいぶ情熱的で、ちゃんとプロで、緊張とリスクの中しっかり真面目に努めている、演奏や演技が好きな方々を、恐れながら、同志のような気持ちで見ているときもある。あ、一瞬ね。一瞬、初めにそう思って、あとは普通に尊敬の眼差しとか、ファンの気持ちで見ているよ。

演奏も演技も、人前で披露することで、なんだか、外界とちゃんと繋がってるって感じがする。ひとりでもできるけど、その方が自己満足も得られやすいけど、誰かが聴く、誰かが見てるって思うと、私の地面と私以外の人の地面が地続きになるっていうか。こうやって文章を書くことも、表現という意味では同じだと思うんだけどね。たとえ、誰の目に留まることもなくても、私は意思や感情や音波や電波を、外に放出したいんだと思う。どこかにぶつかって感触のひとつでも残ればいいけど、それはわからないね。一生何もないかもしれないし。でももし当たったら、掠めたら、地続きになるんだ、一瞬ね。

自由自在に鍵盤を操るピアニストの彼は、私の何でもないけれど、彼の演奏する姿やその環境、応援しているファンの方々のコメントが、表現者としての世界を作っていて、それをぼんやり眺めている。それが私の鑑賞しているという立ち位置。アーカイブが思い出として残されても、あの時の同じ場面は二度と無い。流れて、止められなくて、終わってしまうっていう、あの感じがああ好きだなぁと、改めて思った。

本当は、全ての日が、全ての時間が、誰しも、そうなんだけどね。わかってはいるー。

 

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