こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

洗濯観念

固定観念から解き放たれたい。それが大事な枷であることも多いけど。リスキーな気分に浸って酔いたいだけかもしれない。当たり前から離れると、終わりにも始まりにも、近い。

世間でいう○○すべき、というものには、警戒心から入ることが多かったが、繰り返していけば次第に当初を忘れ、常識をまとったソレに染まっていく。それに加えて、自分の中で積み上げられた、こうするべき、こうあるべき、この方がいい、そうであるはず、という感覚は、勝手に培われてしまって、かっったい頭を構成する材料になってしまった。

今一度、お湯に浸すように、水中でゆらゆらと揺するように、様々な固定観念を濯ぎたい。有って然るべきなものもあるだろうし、全てを捨てたいわけじゃない。ただ、それが道理だと、当然だと、決めたのはだぁれ?“多数決”だって、それは“手段”であって、“正解”じゃない。本当にそれは私もちゃんと思っているMy観念?世界に固定は私に固定ってそれリアル?たくさん問いたい。

異質なことを掲げて、混乱を招きたいわけじゃない。(混乱は、各々の中で常に起こっているものだと思うからそれで充分。)ただ少しズレたところに何があるのかな?って、ちょっと気になるなって、思っただけ。

自由で、のびのびと、何でもアリ、に考えているようで、結構囚われてしまっているなって感じる。人に押し付けることはなくても、自分に対して、こうあるべき、すべき、そのはず、と求めてしまっている時がある。それが苦しいって思ったときはそれをなんとかしてやめたい。だって苦しいのは、...苦しいやんなぁ。私は思い悩むべき、努力してないのだからせめてその様子を隠すべき、こういう場合は自身を恥ずべき、とかが、今までよく感じてきたことかな。まぁそれをその通り!と思ったところで、実行できているのかはまた別の話だけども。

固定観念が守ってくれることももちろんあると思う。曲げられないものは信念に繋がることもある。譲れないものがあるのは、私にとって羨ましくもある。新たに見えかけた世界に蓋をすると、それまでの世界は守られて安心かもしれない。でもそれに押し付けや強要的なものを感じ取ったとき、違和感をもったとき、どれだけそれらをとっぱらって考えることができるだろう。自身の思いとして尊重してきたことも、実は反面、自身を苦しませているとしたら。

すべてが正解じゃないのなら、“こうあるべき”も“それしかない”も、他人にも自分にも簡単に求められるものじゃないんだ。だからあえて、濯ぎたい。それでも手元に残るものが、紛れもない事実かもしれないし、真実といえるかもしれないし、私のリスクを冒しても譲れないものかもしれないから。

ちなみに。世の中における固定観念は、私の一存で変えられても困るだろうし、私にそんな超能力はないから、私は自分のことしか考えてないよ。枷はひとりひとりにオリジナルが付いてるものだからね。

 

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