こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

ねこのまち

商店街を歩いていた猫が誘拐されたニュースの、コメント欄を見て、なんかいろいろと考えてしまった。猫は無事見つかって飼い主の元へ戻され、犯人は別件で捕まったようだ。その結果には一安心したのだが、ちょっと引っかかっているのが、多くの人が「野良猫ならともかく飼い主がいるなら完全室内飼いを!」と提示していたことだ。今回の猫さん、飼い猫と言っても、近年は日本全国各地にあるお寺や神社付きの猫のようだ。首輪もつけているし、その飼い主から餌も貰うが、普段は近所のお店前で看板猫をしてみたり、その辺を自由に往来しているような、いわゆる地域猫。商店街全体で可愛がられている存在らしい。そのこと自体にも賛否両論あるのはわかるが、あまりにも大勢が室内飼いを“断固”推奨し、さらには飼い主(と名乗った人物)を責める様子も見受けられて、ちょっと違和感を覚えた。

私は、飼い猫の完全室内飼いについては賛成の立場だ。我が家も実際そう。猫の身の安全と、人間の独占欲、正直どちらもある。うちの近所で放し飼いは全く現実的ではない。そのような環境と人間側の気持ちから、今の状況に至るのは当然とも思っている。

しかし一方で、地域猫を“文化”として、いい感じに継承していってほしいとも思っている。昨今“猫島”と呼ばれる場所はいくつかあるが、そのような“外暮らし”で“みんな家族”というカタチも、「素敵」と思うからだ。猫はどんな猫でも可愛いが、“その土地の猫”ってなんだかいい。地域独自のお祭りのように、その土地においては毎日の習慣のように、それが“当たり前”な文化として、“猫島”や“地域猫”という存在は是非あってほしい。(猫島・地域猫に関してはまた別途問題があると思うが今回は割愛する。)

完全室内飼いを徹底させたい人の、猫を想う気持ちも理解できる。「地域猫こそ、人間のエゴである」「リスクや適応力の問題」主張も真っ当...だからこそ議論の必要があると思う。サポートや個別の環境、住民の感覚などの話し合いなしに、「リスク回避の観点から室内飼い一択」という主張や、そこからの地域猫批判、飼い主批判が出るのは、正直乱暴にも思える...。

今回のニュースは“島”ではないが、テリトリーは主に商店街の中であり、地域猫に近い飼い猫であると思う。(飼うということ...飼い主とは誰だ何だということだが、この場合は病院へ連れて行ったり、メインのご飯をあげたり、決まった寝床とされていたり、という意味だ。)その猫が連れ去られた(商店街、つまり通常のテリトリーから消えた)ということで、わりと衝撃的なニュースだった。保護の知らせに皆安堵している様子の中、コメント欄には辛辣な言葉が飛んでいた。「危険に晒したくないなら完全室内飼いにするべき」「放し飼いはもはや虐待」「誘拐されてそんなに辛いなら最初から守ってればいいのに、自業自得」「猫を想うなら....」と書かれていたけど、飼い主さんを一体どう思ってそんな言葉を投げかけているのだろう。長年、近所の皆で大切に育ててきて、あんなに大事そうに猫を抱っこして、猫を想ってないとでも?そりゃあ本当のところは私だってわからない。それでも、「悲しんでいる様子の人にかける言葉がそれ?」と別の意味でも衝撃的なニュースであった。

外暮らしは不幸?一生部屋の中でも不幸?猫にとって何が幸せなのか、人間側は推測するしかなくて真実はわからない。閉じ込めて大事大事に守っても、食うもの困らずで外で自由にのびのびさせても、人間のエゴと言われる。では、共存って一体どういうことか。人間だっていろんな生き方があるように、猫生だっていろんな道がある、と思って、みんなで幸せになりたい。

 

ねこのまち ねこあるき 地域猫 猫島 ねこのしあわせ 猫の日 共存Amazonで検索

はっきりしないことがはっきりわかった

前三回の投稿、一度感情のまま一気に書き上げて、その後何度も構成し直した結果だ。先立って言いたかったのは心境の変化だったのだが、文字にすることで見えてきたものもあり、当初予想していた出来上がりとは違う形となった。何しろ長い。そしてまだるっこしい。でもまさにこれが脳内で右往左往している私の“普段”なのだと、ある意味“ありのまま”示せたようにも思う。

蛇足かもしれないが多少の追加思考。こうして考えていると、性被害もいじめも(後に書く動物飼育の問題も)、被害者側に“努力”を求める構図が見える。新年早々Twitterで話題になっていた痴漢問題だってそうだ。「入試の時期に受験生を狙う痴漢が増える→受験生の皆さん、気を付けましょう」?本当に?もちろん親心的に少年少女たちに警戒心を持ってほしいと願うのは当然だけれど、でもどうして“未然に防ぐ努力”をするのが結果的な“受け手”側なのか。理不尽だ。「犯罪に遭いたくなくば、油断するな」という防犯意識は重要だと思う。どんなに世界が優しく見えても、どんなにこれまで素敵な出会いしか経験していなくても、世の中には、本当にいろんな、いろんな人間がいるのだ。「全人類を100%信用することはできない」それはわかっている。しかしだからといって、その警戒のための努力が、何らかの犠牲が、本人の自由を奪っていないか、齎されて当然の不自由なのか、全ては“仕方ない”のか、私はまだ受け入れきれない。「ミニスカートを履くな」「うなじを見せるな」「体のラインを強調した服を着るな」「危ない目に遭いたくないなら自由に出歩くな」「馬鹿にされたくなければオドオドモジモジするな」“防犯”の肩書をもって、“努力義務”が次々促され、どんどん窮屈になるのは被害側の方だ。誘拐も虐待も、犯罪は犯す側の悪なのに。追い込まれるべきは加害側なのに。今の社会では自衛はやめられない。でも防御や砦があるからといって、人は人を簡単には変えられないからといって、加害側を野放しにするのは違うと思う。自衛を含めた“他衛”、他者を守ること、「加害をさせない」「誰も加害者になってほしくない」そのことをもう一度考える。

 

さて。何も明言できない私の文章を読んで、なんともはっきりしない奴だ、と思われるだろうか。しかたがない。過去のどれをとっても曖昧と矛盾が溢れているし、無理に何かを導き出したところで、それはもはや自分ではない、そういう気持ち。

社会的に“立場”をはっきりさせていると動きやすそうだ。もちろん伴う責任は大きくなるが、堂々としていること、軸がぶれないこと、明確な主張を持っていることは、どれも“美しく”思える。私は足元がぐらぐらだから、“美学”に頼り、寄っ掛かっては吞まれやすい。矛盾や曖昧を許してもらえる空気は居心地がよいから、結論を急がないし二択から選べないし、何かを良いとも悪いとも、言うのが難しい。今までも、そしてこれからも、私が書いているのはどれも迷いの過程だ。

 

構成 右往左往 蛇足 防犯意識 努力義務 優しい世界 美学Amazonで検索

誰を守りたい?それとも救われたい?3

(つづき)

 

そもそも“自衛”が必要なシステムがおかしくない?と今は考えている。決して被害者になり得る側(女性だとか子どもだとかカテゴライズできるけどそこ以外も含めて)が、「人に守ってもらう側だ(守られる存在だ)」と言いたいわけじゃない。時に“自衛”は必須なのだが、自身で心に誓っていても、イコール「誰かに守られちゃいけない」というわけではないはずだ。社会を生きる上で、むやみに他人を脅かさない、他者の健康や安寧を妨げない(もしくは望む・願う)というのは、重要且つ本来当然のことなのでは。ならば、“自衛”に努めなくても安全に平和に過ごせる社会、他者が“自分を衛ってくれている”、お互いに守り合っていることが“通常”となるべきなのだ。(妄想理想と笑われても構わない。きれいごとでも、汚い言葉しか発せないよりはマシだ。)

そもそも が無ければ、自衛できなかったことを責められることも、自衛させなかった周りが責任の所在を追求することもない。そう考えると、自ずと出てくるのは、「やっぱり加害者が100%悪い・全責任は加害側に」というひとつの事実だ。そもそも事を起こさなければ“加害”自体が存在しなかった、それを回避する自衛も、結果としての被害もない、“他人を脅かした”最初の一歩が全ての元凶ということだ。「やらなくていいことをやったのが加害者なのだから」そういう風に理解しようとすれば理解できる。このシステムの始まりも。故に、被害者・傍観者共に、落ち度があるとかないとかは、もはや重要じゃなくなる。であるのに被害者に落ち度や自己責任を求めたり、「(相手が悪いのはさておき)自衛して」と求めるのは、やはり“傷に塩”の状態ではないか、というのがこの度、不安になり一部反省に至ったことだった。(申し訳ないが今回“改心”とまでは至らなかった。私は私で未だ自己責任の呪縛に囚われている。)

しかしながらこれで結論とするのも、また悩ましいことだな。ここから先、また別の問題が浮かび上がる。今度は加害者のバックグラウンド、事に至るまでの背景について考えさせられるなどなど。もちろんどんな経緯や理由があろうとも、「やってはいけないこと」は「やってはいけないこと」に違いない。が、掘り下げることにより、ここにもまた、擁護か責任追及か、善か悪かの二択では片づけられない事実がある。とまぁここまで話していることは所詮私の脳内の、主観的な妄想展開だ。現実起こっていることについては専門の担当者様方がしっかりやってくださっていると思うのだが。私の脳内整理と自省も結局道半ば、いろいろと考えてみることの途中なのだ。ずっと、考え続けねば。

 

自己防衛 守られる存在 きれいごと 妄想 二次被害 傍観者 脳内整理Amazonで検索