こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

誰を守りたい?それとも救われたい?3

(つづき)

 

そもそも“自衛”が必要なシステムがおかしくない?と今は考えている。決して被害者になり得る側(女性だとか子どもだとかカテゴライズできるけどそこ以外も含めて)が、「人に守ってもらう側だ(守られる存在だ)」と言いたいわけじゃない。時に“自衛”は必須なのだが、自身で心に誓っていても、イコール「誰かに守られちゃいけない」というわけではないはずだ。社会を生きる上で、むやみに他人を脅かさない、他者の健康や安寧を妨げない(もしくは望む・願う)というのは、重要且つ本来当然のことなのでは。ならば、“自衛”に努めなくても安全に平和に過ごせる社会、他者が“自分を衛ってくれている”、お互いに守り合っていることが“通常”となるべきなのだ。(妄想理想と笑われても構わない。きれいごとでも、汚い言葉しか発せないよりはマシだ。)

そもそも が無ければ、自衛できなかったことを責められることも、自衛させなかった周りが責任の所在を追求することもない。そう考えると、自ずと出てくるのは、「やっぱり加害者が100%悪い・全責任は加害側に」というひとつの事実だ。そもそも事を起こさなければ“加害”自体が存在しなかった、それを回避する自衛も、結果としての被害もない、“他人を脅かした”最初の一歩が全ての元凶ということだ。「やらなくていいことをやったのが加害者なのだから」そういう風に理解しようとすれば理解できる。このシステムの始まりも。故に、被害者・傍観者共に、落ち度があるとかないとかは、もはや重要じゃなくなる。であるのに被害者に落ち度や自己責任を求めたり、「(相手が悪いのはさておき)自衛して」と求めるのは、やはり“傷に塩”の状態ではないか、というのがこの度、不安になり一部反省に至ったことだった。(申し訳ないが今回“改心”とまでは至らなかった。私は私で未だ自己責任の呪縛に囚われている。)

しかしながらこれで結論とするのも、また悩ましいことだな。ここから先、また別の問題が浮かび上がる。今度は加害者のバックグラウンド、事に至るまでの背景について考えさせられるなどなど。もちろんどんな経緯や理由があろうとも、「やってはいけないこと」は「やってはいけないこと」に違いない。が、掘り下げることにより、ここにもまた、擁護か責任追及か、善か悪かの二択では片づけられない事実がある。とまぁここまで話していることは所詮私の脳内の、主観的な妄想展開だ。現実起こっていることについては専門の担当者様方がしっかりやってくださっていると思うのだが。私の脳内整理と自省も結局道半ば、いろいろと考えてみることの途中なのだ。ずっと、考え続けねば。

 

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誰を守りたい?それとも救われたい?2

(つづき)

 

私は悪意なく“味方”を名乗りたい。それが自分の本心だと信じたい。それでも“自己防衛して”という思いは消えてはいない。そこには自分の“経験からの裏付け”が隠れていると思う。私も過去の出来事に対して「自分にも落ち度がある」「世の中をなめてかかっていた」という自覚を今現在も持っているからだ。「世の中性善説だけではやってけねーよ」と当時も今も思っている。「世知辛いね。悔しいね。腹立つね。」とも。だからこそ、誰にも加害者にも被害者にもなってほしくない。

件の加害者側の男性を私は昔から応援していたし、事件当時もうほんとに腹が立った。「何やってんだよ!完全に間違えてる。ずっとかっこいいあんちゃんでいてくれよ...」とテレビに向かって言った。ファン心から擁護する、なんて気も起らず、仕方がないとも全く思えなかった。 被害者側の女性については「ショックだよね。自分を責めなくていいよ」と同情の気持ちもありつつ、「でももうちょっとやりようがあったのでは」「仕事人として自分の行動に責任は持つべき」と思ってしまった。正直、今も少し思っている。

「あなたは何も悪くない」と彼女を“被害者”として守りたい気持ちと、「未成年であっても社会人としての自覚に欠け、一人間として自己責任を免れない」と原因や理由を追及し続けたい気持ち。両方ある。どう考えても「やらかした側が悪い」というのに、“被害者側の責任”を放棄できない。その考え方がもしかしたら“二次被害”に繋がるかも、と理解してなお、未だに中途半端な立ち位置にいる。私は、ともすると過去の自分と他者の事例を混同して考えているのかも。“ちゃんとしてこなかった”自分を今でも責め、“被害者”に“投影”してそれを許せないでいる。それこそ未熟を晒しているようで恥ずかしいことだが、どうも割り切れないのだ。「隙を見せなければそんなことにならなかったよ」と頭の中で誰かが囁く。「私がどんな人間かは関係ない、やらかした奴が悪いんじゃん!」と別の誰かが言い返す。脳内論争。「どの被害者も、そして私も、なぁんにも悪いとこなんてない!」と開き直れないほど、こんなにも、未だ何かに囚われている。

自身の過去発言を省みて「傷ついた誰かをさらに傷つける善意(好意)の面した凶器」は自分の手の中にもあることを知った。自分の思考がもし誰かをさらに追い込んでいるとしたら、それは謝りたい。ごめん。それでも、当事者みんな救われてほしいと思っているし、“真実”を知りたいという身勝手な欲もある。そもそも人を裁く立場ではないのだから、どんな持論を持っていようと一方通行にして行き止まりだ。自分の知りたがってる“真実”とは何なのか。“納得する未来”など来ないことをわかっていてなお、考えてしまう。

 

(つづく)

 

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誰を守りたい?それとも救われたい?1

数年前、とある成人男性芸能人と未成年女性芸能人のトラブルについて、SNSでつらつら持論を吐いたことがある。最近その内容を顧みて心境の変化があった。というか反省・訂正したい気持ちになった。そして解放されたい気持ちにも。ジェンダーや人間社会について、考える機会が昔より増えたから、ということかもしれない。

加害者と被害者がいて、当然責められるべきは加害者なのだが、内容によっては「被害者にも多少なりとも落ち度が」という風潮があり、私はその一部に賛同していた。実際には、大なり小なり事実として“落ち度”とやらが存在する場合も、本当に全く無い場合も、ある。それらは個々の事例によって異なる。例えば、最大限の予防線・警戒心・あらゆる無駄を省いた必要最低限の人間関係に努めるならば、落ち度0%に限りなく近づけるかもしれない。そこまでやってても“ほぼ”、まして人間なら完全無欠ともいかず油断もあるだろう、ということで「100対0ではない。被害側にもなんらかの落ち度は(きっと)ある(はずだ)」という意見は成立していた。...ように見えていた。少なくともあの事件に関しては、私もそういう印象を受けていたのだ。「どれもこれも一理ある」と思いながら人々の議論を見ていた。それでいて持論を展開したときは、あくまで私は被害者の味方のつもりで発していた。

無条件で加害者が断然悪い!とはいいつつも、被害者側(当事者、そしてこの先被害者になり得る全ての人)に“自衛”を願った。自衛の定義も人それぞれだと思うのだが、私は個人的に(彼女らを年代的にかわいく思うあまり)「もっと自分を大事にして」「誰かに守ってもらうんじゃない、自分を守れるのは自分よ」という思いから、“自己防衛して”と願った。実際、私の呟きなんてネットの海の砂粒以下だし、当事者に届くことはないのだけれど、その頃のプライベートな心情も相俟って、妙にシスターフッドを感じての発言だった。

しかし。今になって思えば、それが正しい“鐘の鳴らし方”だったのかはわからない。結果的に被害者となってしまった人を、さらに傷つける意見ではないか。既に自分を責めている子に追い打ちをかけるような言い方ではないか。当時の自分の解釈に不安を覚えた。もし、「あなたの為を思って」なんて言いながら“味方”を名乗り、その前提で“落ち度を自覚”させ、指摘して扇動しているのだとしたら、なんて質が悪い。そうでなくても、“幸せであれ”と願ったことが、相手にとっては筋違いの望み、善意の凶器なのかもしれない。本人に届いていないのだからいいではないか、という問題ではない。私の意識の問題だ。あの頃から今、私の何かが変化しているんだと気づいた。

 

(つづく)

 

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