こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

2022

あけましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願いいたします。

と、定型挨拶を致してみたが、これを書いている今は既に新年を迎えて数日経っている。過去日付分も元々溜まっているし、もうそんなに焦らないことにした。空いた日付を埋めるだけの作業とならぬよう、これからも、書けるだけ、書きたいように、書ける限り、やっていこうと思っている。

いつも、何かにつけて節目と決めて、「突如停止」「キリのいいところ」「再スタート」などと、都合よく“切り替え”や“生まれ変わり”を試みる。けれど外側から与えられたわけでもないきっかけに、自分勝手な思い付きの決意など、何にも到達しやしないのだ。「名前を変えて再度頑張りたい」「今までの事を全て忘れて生まれ変わりたい」「誕生日だから」「新しい年が始まったから」「何歳になったら」「もしもが起こったら」いろいろ想定することは言い訳がましく、時間のタイミングをきっかけに置き換えたり、外面を張り替えるのは簡単だけれど、その決意は軽く、長く定着しない。

毎年、新年が来る度に、何か“決意”したくなる。生まれ変わりたくなる。今まで歩んできたルートや停滞する時間を、まるっきり違う方向へ切り替えたくなる。でもいつも無意味だった。私の怠惰は根深い。結局“挫折”する。ならもういっそ、決意しない方がいいんじゃない?それか、元日といっても他の毎日と同じ24時間の一日、年が変わるからといって自分が一瞬で別人になるわけでもない、特別なことは何も起こらない、だから“決意”なんてするタイミングじゃそもそもない、と思うか。新年の抱負を掲げるのは良いこと、だと思うが、私みたいなのに必要なのは、抱負ではなく覚悟だ。“丁度いい節目”でなくとも良いならば、むしろ毎日いつだって自由に決意すればいいのだ。そして未だに私は、「決意しなくてもよい」自由を選択し続けている。

ということでまさしく“言い訳”を長々書いてきたが、つまりはこのブログについて、新年だからどうこう、とは特にない、ということである。間違いなく昨年からの続きであるし、今年から頑張ります!と胸を張るつもりもない。一応、ご挨拶としてこれを元日として置いておくが、これから昨年の分も現実時間に追いつくまで、淡々とやれたらと思っている。きっと思い通りスムーズにはいかないだろうし、また停滞したり気が変わったりすることもあるだろう。でも、それを認めないような決意はしたくない。年始に誓うのは、今夜や明日への約束ではない。当たり障りのない世界平和への祈りと、「今ここにいます」という告知だけ。

 

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2021 ending

年が変わるという。また区切りをつけられる。自分の気持ちに関係なく、ここが境目だと告げられる。私はいつも通りどんくさくて、ここに来て何故だか焦りだすけれど、でもすぐにスンとなるの。今更足掻いても、何に抗っているのやらって感じ。ここ一年にやり残したことは多々あって、きっと頑張ればできたはず、とでも一瞬思っていたんだろう。実際はどうあれ、思うのもやるのもやらないのも私自身だ。ブログの書けていない分はなんとか年内に書き終えたい、なんて年末のある日ふと思ったけれど、いや、やっぱりもういいや、“間に合わせ”は諦めよう、と決めたのだ。いつか、書くは書く。でもとりあえず更新だけしとけばいいや、はやらない。それはもっと、他の場所でもできることだし。自分でも「あーあ」って残念に思ったし、“いつも”こうだし、締めが悪いなぁとも感じるけど、まぁ誰に迷惑をかけるでもなし、毎日更新を掲げながら行動が伴っていないことを、自責し続けるのもどうなのかなぁ、と思ったのだった。

中途半端なことばかりだし、劇的な始まりも、有能の証明も、立派な達成感も、何一つなかったけれど、今年という一年が終わろうとしている。一番「いいかげんにしろ」と言われた一年かもしれない。自分も周りも満足するような、納得できるような行動ができないのは、欠点というのだろうか。埋めるのを邪魔するのは、芯もないのにしつこい自我なのだ。「どうにもならない、を思い知らされる日が来ないように」予防線を張るよう勧められる私の腰はどうにも重い。

振り返ろうにも、特徴の浮き出ない毎日だった。私自身は決して暇とは思っていないけれど、他人から見ればなんとも面白みのない日々だ。物事を目的無く始めて、突如生まれる物語、なんてものはなかった。当然だ。自分で、刺激を避けて抑揚を避けて選んできたのだから。無意味だけれど、間違いなく己が選んだ“日常”だ。良い・悪いと評価するつもりもないし、対策・改善などと問題視することもない。二度と取り戻せないと知ってて流した、意図的に見過ごした毎日だ。正直、自分でも印象薄いから多くを語れない。だいたい毎年の大概を忘れてしまうのだ性格的にも。何かのタイミングでここの過去記事を読み返してみても、自分の言葉なんだけど他人っぽい、その時々に“当時の自分”を置いてきているのか、“延長線上”の今では無い気さえしてくる。確かに“生かされてきた”と思っているし、“感謝”の気持ちもあるんだけれど、はっきりと“今年はこれ”という話し方は...うーん、できないなぁ。

ひとまず、今日を数えられることに感謝するとしよう。駄文を好き勝手重ねられる毎日に、気まぐれを許される環境に、脳内のぐるぐるを垂れ流せる自由に、ありがとう。もしかしてこれを読む、自分以外の人間様、お時間を頂き、ありがとうございました。残りを存分に起きて、今年を終わる。ではまた来年。

 

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元々間に合ってないし

気が付けばカウントダウンが始まっている。皆が忙しく走り出す中、私は変わらず、お尻に根っこを生やしている。どうせ立ち上がって、真似て右往左往したって、邪魔って言われるだけだから。全然実感が湧かないな。「ありがとう」も「よろしく」もナチュラルに唱える自分を想像できない。つい昨日のように12月初めを思い出し、夏の暑い日を思い出し、桜の花を見に行った散歩を思い出す。家族が居たり居なかったりする年末をほぼほぼイコールのように去年?今年?と困惑しながら思い出す。外界を忘れそうなのは、コロナや寒いせいじゃない。私は本来そういう性格で、“静”という行動から生じた当然の結果だ。

ひとつひとつを考えれば、迷わないはずがない。一点に注目すればするほど、私は目移りし、目が泳いで、眩しいと目を閉じたがる。時間は戻らないのだから、憂うのは先のことだけにしたい。それでも振り返って、この1ヶ月がどうだの、この1年がどうだっただのと、語りたがっているようでホント自分にイライラする。イベントもトラブルもなかったよ。自分が大人しくしてさえいれば、余計なことを口走らないし、反射的にしゃしゃり出ない、他人にも自分にも揺さぶって疲労させることはないんだ。揺れる水面を見るだけでも、私はちっとも暇じゃない。そういうのを共有できるような人じゃないと、この惑い方を理解できないと思う。

季節に便乗して、例えばTVの特番を録画したり、用が足りれば廃棄されていくものに哀愁を感じながら結局他人事として見送ったり、無くても生きていける・知らなくても差し支えないものに手を出し口を出ししているときを、ふと無意味に感じる。「人生を豊かにする」などと言ってみたとして、人生が人間が豊かになった実感など今までない。他人の様々な締め方や始め方を前にして、「ああ、きちんと証を刻んでるんだな」と思う。「昨日と今日が変わらない一日」なんて言っていると、きっと今日と明日も変わらない一日になる。今までの“普段”には目に入らないことが多少起こったって、時間だったり体力だったりの根本的な“浪費”には変化はない。雰囲気に呑まれてだらだらしているのではないよ。元々だよ。

来年に残せない宿題でもあるのなら、のんびり屋の私でもさすがに今日ぐらいから焦るだろう。でも生憎、宿題など設けずにこの1年やってきた。誰かに課されそうになると下を向いて避けてきた。“受けて立たなかったツケ”は廻ってくるぞ、とも言われたが、それはそれでしょうがないと思っている。ノルマを課されるプレッシャー、それによって成長すること、宿題を期限内に終わらせる達成感、そういうの、一旦どこかに置いてきてしまった。残り数時間、どころか、残すは半年、だとしても、私はとうに「もう間に合わねーや~」と言っていた気がする。

 

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