こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

君が正しい理由を教えて

昨日書いた、「作者が咎められる人間だとしても作品に罪はない」的な話と、逆のことが最近また起きてるね。「作品が悪なものだとしても、作者の人間性すべてを否定する理由にはならない」急激に盛り上がる攻撃に、迎撃したって埒があかない。どうしてこんなことになってしまったのかな。世の中おかしなことばかり起こる。私がおかしなと言っているのは、その作者とやらのことでなく、社会や他者である人間たち、集団の狂気に対してである。

その罪を擁護するつもりはさらさらなくて、全世界で絶対悪と認識されているということと自分自身が倫理的に無理ということを理由に、罪は罪でその通り、罰も妥当だと思う。でも一瞬にして、まさに掌返すように、ひとりの人間を総批判するのは、どうにもこうにも違和感ありすぎる。皆そんなに他人にとやかく言えるほど、聖人君子なの?今まで何の間違いも起こさず生きてきた清廉潔白なの?人は間違いや苦難を乗り越えて変化を繰り返して生き続けることを選んだ結果、今ここにいるわけだから。過去の一瞬だけでフリーズして、またはスキップして今に至るわけじゃない。間違いに気付いては正し、失敗しては改善を続けている過程を無視して、「過去も現在も未来も同一人物のあなたでしょ?過去の罪深いあなたは現在も未来も同じく罪深い」って、なんて暴力的な考え方って思う。

あまりにも無知のまま攻撃にかかる人が多すぎる。怖くないのかな。何の予備知識もないまま人を咎められるって随分とまぁ逞しい。正義感がそうさせるのか。「なんて酷い」と目も耳も塞ぎたくなるような事象だとしても、前後の文脈は?とか、それに対しての本人の弁は?とか、これまでどうしてきたの?とか、知らないことが多すぎて、そんな気軽に人叩けない。若気の至りなんて言葉では済まないのかもしれない、反省したとしても足りないのかもしれない。でももし自分が他人を責めるなら、たくさん正確な情報をもとにちゃんと考えてから、だ。じゃないと二の舞になるかも。たった数秒がその人の人となりであり人生、なんて、神様でもなきゃ判断できないわ。

賛同する批判するに関わらず、どれだけの人間が、自分じゃない他人のことをちゃんと理解しているのか。実際、理解するどころか、100%知ることなんて不可能だ。だからこそ、人生のうち一瞬の交わりを大事にする。人間の、ほんの一部分に触れただけなのに全てを手中に収めたつもり?「初めは知らなかったんですけど...」って付け焼刃みたいな人が知ったかぶりで話してると、なんだか自分が恥ずかしくなる現象が多発する。できる限りしかできないことはわかっている。それでも状況や環境や時間に煽られて行動判断を間違えるのは、人間そのものを見ていないんだなって、最近のアレコレでよくわかった。

 

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残酷と贖罪と

連日、人間てやつは残酷だなと思う。自分もまた、残酷だなと思うようにつくられている人間の一部だ。面倒だな。何も気にならないくらい鈍感なら、緊張することも心痛することもないのに。想像を超えてくるような人を知ると、レベルは違えど私も同じような“残酷さ”を抱いている、と思うと吐き気がする。

明らかな悪事に対して、若さや未熟さや環境の悪さはどこまで言い訳として通用するのだろうか。未熟だから人をころしていいかっていうと、皆よくないって言うだろう。そこまでの極論を出さないと思考停止したままの人もいる。人間はひとりの中にいろんな顔があって、他者と共感できる面や全く独りよがりの面がある。どんな激情も、共感があるから増長されるのかもしれないし、独りの世界で生まれたから膨れ上がるのかもしれない。子供の頃から「相手の立場に立って考えましょう」と教えられているから、なんとか想像して仮定して考えてみるけど、どうしても欠片も理解できない思考はあるのだ。もし、知識が増えてとか、時が経ってとかで、欠片くらいは理解できるようになったら、私はそうなった自分に多少慄くだろう。わかる喜びと、自分も“そっち側”(の面もあるん)だということに気づいてしまって。

よく、作品とその制作者のプライベートの関係性を議論されるよね。不祥事を起こした人の作ったものなんて見たくないって言う人がいたり、作品の価値と作者本人の言動は別物だって言う人がいたり。私個人としては一概にこうとは言えなくて、ケースバイケースだと思うなぁ。もちろん断然個人の価値観や好みを踏まえての考えね。音が美しいと思った、色が綺麗だと思った、作者の生き様によってそれが汚されると思うような事態になった。それでも、美しい、綺麗だ、かわいい、楽しいという“想い”の流動は止められない。だからとても傷つく。ただ純粋な気持ちよさを求めているのに、罪の顔がチラつくのは残念としか言い様がない。気に入って手にとったそれが、そういう精神、そういう考え方、そういう人間性を土台にしてできたものだと気づかされたときの、失望感。しかしできることなら、生み出されたものと生み出した人は別々に考えたい。血肉注がれて育てられた作品とそれを生んだ作者、どっちも大好きになることはあるだろう。けれど片方の印象が変わったからといって、もう片方をも否定する気には、そうあっさりとはなれないのだ私は。むしろ苦しい好きが続くだろう。作品は、この世に生み出された時点で、それは独立した価値だと思う。思いたい。そしてさらに言えば、人間性による過ちを作品で償おうとしてほしくない。「私、悪いことしたけど、こんなえぇもん作ってますよーだから許してくださいな」的な。生き様の罪は生き様で贖ってほしい。たとえ制作が生業だとしても、作品を己の株上げに利用するようなやり方は見たくない。作って世に出した時点で巣立ってる。今度はこれから触れた人たちの中で育つんだよ。だからそのものに価値がある。自分が好きなものならなおさらそう思っちゃうね。

いつでも残酷になれるんだきっと私も。そしてその深さも、初めのうちは自分でコントロールできる。もし、制御不能になったら、その時はどうしたらいいんだろう。正義を振り翳した残酷さなら、極々身近にいるような気がして。怖くなるけど、たとえ吐いてでも、この不快さを忘れないでいたい。

 

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ドント・テル・ミー

「どうして?」と単なる疑問として投げかけられた言葉すべて、なんだか責められているように感じるところが、正常な判断では無いよなぁと思う。やっていることに対しては「意味ないよ」「やめなよ」と言われているようだし、現状や気持ちについては否定されているよう。実際はそう言われていないことを、耳で聞いてわかっているんだけど、どうしてもその「どうして」の出処を探してしまう。「どうしてやる気がないの?」そんなんわかるかよ、と口に出そうになる時はもはや怒りに近づいている。

高を括ってそうなのに怖いのかな。全て諦めている素振りで本当は諦めが悪いのかな。私は、余裕そうに見られて次々可能だと思われることも、繊細そうに見られて気を使われすぎるのも嫌い。自分でも、自分に対するアクセスをいい塩梅に捌けないし、人に「いい感じ」で自分を扱ってもらうのも難しい。たった一人の多面的な自分であるけれども、それぞれ独立したパートで自分が何人もいるみたい、とも思う。ひとりひとりが、ひとつずつ天秤にかけるようにして、かけられる言葉にどんな感情が混じっているか、計ろうとしている。あらゆる場面でネガティブが勝って、結果「責められている・怒られている」と思ってしまうに至る。両極端にもなりうる考え方が、最低でも2つ以上あって、どれも顔は自分だから「自分はどう?」と訊かれて、困る。

言い訳ばかりの自分を、その場しのぎの自分を、一生責められない世界なら、ずっと生きていけるか、というときっとそうでもないのだろう。都合のいい言葉ばかりを繰り返して、それによって否定されて傷ついても、なんとなく生き続けるような今がある。責められても怒られても、延々と嫌だなぁと思うループに陥っても、私の姿勢が変わらないなら、それを警戒して構えていること自体、意味のないことだ。生意気に反発したとしても、実際には否定などないとわかれば、全てが思い込みだったとひとりで恥ずかしくなるだけ。

時にヤケクソな気持ちになって、私のことどうせ全否定なんでしょ!何もかも自分の思う逆行けば成功するんでしょ!なんて言いたくなる。(こじらせてんなぁ。)「君の選択は全て逆だったらよかった」なんて言われたとしても、「何をォ~!?」と言いながら「そうだったんだ...」と妙に納得することだろう。「どうして」というシンプルな質問に瞬発力で答えられない私は、えっと...と言ってる間に次々と✖を貼られている気分だ。貼られたところで「しょうがない」と呟いているが、チクリと痛みはあるんだ。勘違いでも、痛んでいるんだ。

 

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